どんどん男の力が強くなっていく。それに伴い、ミレイの呼吸がどんどん危険な方向へと近づいていく。



――ただでさえ極限の疲労が来ていると言うのに、
大切な酸素を取り入れる行為を妨げられるとは、どれだけ恐ろしい事か……――



「い゛……や゛……は……な……」

 床に背中を強く押し付けられた状態で喉元を非常に強い力で握られ、まともに声を発する事すらままならず、それでも抵抗を試みようと、ミレイは無理に声を出しながら、両腕に力を込めて引き離そうとしたり、弱り始めた拳を握り、男に殴ったりするが、所詮は悪足掻わるあがきであった。

「何が言いたいんだよ? 『離せ』ってか? まさかお前このまま絞殺でもされちまうとか思ってんのか? 心配はすんな、死なねえように調整ぐらいしてやるよ」

 男の読んだミレイの吐こうとしていた台詞は正しいものであるだろう。だが、望みを聞き入れる事はしない。



――殆どこれで男は勝ったようなものなのだから……――



 ミレイも徐々に意識的な問題が現れ始める。呼吸もまともに出来なくなるのは勿論だが、やはり徐々に力が抜け始めていく。

(早く離して……! やめて……!)

 そして、ミレイの様子に変化が訪れ始める。

「あぁ?」

 その様子を見た男は、今までのミレイのとても少女とは思えないような戦闘力と忍耐力からは想像も出来ないようなものとしてある種の喫驚きっきょうを覚える。無論、男は手を緩める事は無い。



――ミレイは……突然涙を流し始めたのだ……――



 一体どうしたのだろうか。流石にただ身体が痛いから泣き出したと言う訳では無いだろう。だが、やはりその光景は少しだけ妙とも言えるだろう。

「お前何泣き出してんだよ」

 対戦相手の涙は普通はあまり目にしない光景なのだろうか、やや呆然と、男は口を開く。



――今更になってこの絶望的な状況が怖くなり始めたのだろうか?――



――或いは、このまま男の思うように死の一歩手前まで導かれるのが恐ろしいのだろうか?――



――それとも、自分の力でこの場を切り抜けられない事に悔いを覚えたのか?――



 ミレイの目の前が涙によってどんどん歪んでいく。だが、これはミレイ本人の意思では無かったようだ。ほぼ勝手に、とでも言うべきか、自然に流れ出てきたものであるが、結局は自分自身の体内から出てきたものなのだから、誤魔化しは通用しない。

「やっぱおれに敵わないって事がやっと分かって泣き出したのかぁ? そうだ、お前らにいい事教えといてやるよ」

(いい加減力抜いて……!)

 男はミレイの溢れる涙を馬鹿にするかのような目で見た後、今度は周囲で黙り込んでいる乗客達を見渡した。

 ミレイの心の叫びは一切通用せず、相変わらず首元をとんでもない力で握られたままで苦しみ続ける。

 そして男は一拍置いて再び言葉を出す。

「元々この騒ぎの原因はなあ、この小娘にあったんだよ。こいつさえいなけりゃなあ、ここまでおれらが暴れる必要も無かったんだよ。ただ用があっから、ついて来てくれって頼んだだけで、反発なんかしやがって。お前ら、恨むんだったら、こいつの事恨んどけよ」

 首を絞めたままで、男はもしミレイの抵抗が無かった場合の状況を説明し始める。乗客は当然ではあるが、男の左右にいる為、男は周囲をきょろきょろと様々な箇所に目をやりながら、口を動かしていた。



――確かに反発さえしなければ、ここまでの騒動はありえなかったのかもしれないが……――



 だが、ミレイだって素直に連れて行かれるのは嫌な話だろう。人権だってあるのだから相手の思い通りにされるのは誰だって抵抗を感じるものだ。だが、それによって無関係の大勢の人間が巻き込まれた事がミレイに対して憎悪として飛ばされていないかが一番の問題だろう。

「おいおい、お前もいつまで泣いてんだ? 他の奴らも見てっぞ。恥ずかしいと思わん――」



――その時だ。男の頭部に何かがぶつかったのは……
同時に男の言葉が止まってしまう……
そして、何か乾いた物が床に落ちる音も小さく響く……――



「ってぇなぁ……。誰だよ」

 男はミレイの首を絞める両手の力を一切緩めず、背後を恐ろしい程の目つきで睨みつける。

 そこに映っていたのは、





――先端の折れた木片を両手で、震えながら持っている……――





――アビスだった……――





 誰に処置をしてもらったのかは分からないが、額には後頭部と共に包帯が巻かれており、その他多少、青いジャケットには汚れが映っているものの、その服の裏にも処置が取られているような印象を受ける。

 持っている木片の先端が折れているのは、恐らくは男をそれで殴った際に木片自身が衝撃に耐え切れず、先端が折れたからだろう。

 アビスは自分の事を睨んできた肥満の男に向かって、対抗意識を示すような言葉をぶつける。

「お……おい……ミ、ミ、ミレイから……は、離れろ!」

 アビスとしてはミレイを助けようとでも思っているのだろうが、言葉が震えている。そして身体も震えているのだから、紛れも無く男に対して恐怖心を抱いているのだろう。



――ミレイはそんな大男相手に奮闘してたと言うのに、情けない話である……――



「あぁ!? お前さっきのザコじゃねえか。文句でもあんのかぁ!?」

 男は未だミレイを締め上げたまま、わざとアビスを脅し立てるような乱暴な口調で、睨んでいる目を更に鋭くさせる。

(ア……ビ……ス……)

 直接声には出せなくとも、まだ意識の残っているミレイには、心で男の気を逸らしてくれた者の名前を考える余裕は残っていた。だが、あまりアビスに期待は出来ないだろう。

「い、いいから……は、早くミレイから……は、はな、離れろ!」

 やはりお世辞にも期待出来るとは言えないような震えた口調だ。ミレイを助けたいと言う気持ちは伝わるが、実行出来るかどうか、と言った所である。

「そうか、お前も遊んで欲しいのかあ、いいだろう。じゃあお前から始末してやる。こんな奴後でやっても充分だ」

 言い切ると同時に男はミレイの首を離し、そして足でミレイの胸元を乱暴に押し飛ばし、転ばせる。



――立ち上がり、男はアビスにゆっくりと近づく……――



 男の背後ではようやく呼吸の妨げから解放されたミレイが咳き込みながら首元を押さえているが、そんな事はお構い無しに男は木片で小さな武装を施しているアビスに反撃を仕掛けようとしている。

「あ……いや……、あんま……来んなよ……」

 攻撃の的がミレイからアビスに移った訳であるが、人間同士での争いには慣れていないのだろうか、まだここで一度も攻撃を受けていないと言うのに、尻込みをしてしまっている。飛竜と戦うであろうハンターとしての精神はどこへ行ってしまったのやら。

「お前、何が今頃『来んな』、だよ。おれに一撃加えたからにゃあ、覚悟しとけ……」

 一瞬だけ声が静かになるが、次の瞬間……

「よおっ!!」



――男の右ストレートがアビスを捉える!――



「わぁ!!」

 左の頬を恐ろしい程の力で殴られ、アビスの紫色を帯びた髪が反動で激しく揺れ、折角武装道具として持っていた木片を手放しながら床へと倒される。

「お前見た感じ超弱そうだなあ。あの女より相当楽なんだろうなあ」

 痛みによってすぐに立ち上がれないアビスに再び近寄り、ミレイに存在した威勢と言うものがまるで映らないアビスに弱者と言う権利を受け渡し、アビスの髪を掴んで強引に立ち上がらせる。

「おれに喧嘩売ったらどうなるか、教えてやるぜ!!



――今度は左手による横殴り!――



「うっ!!」

 ミレイならば攻撃を受けながらもある程度は受け流し、そして少女と言う概念を捻じ曲げるような精神力で何とか立ち続けていただろうが、アビスはそうも行かなかった。

 まるで格闘の世界の恐ろしさを植えつけられるような激痛と衝撃により、横倒しにされる。

「何寝ようとしてんだ?」

 男の目の前でうつ伏せに、そして男に向かって右半身を向けるような状態から何とか両手両足を使って立ち上がろうとするが、男は黙る事を知らない。



――アビスの背中を上から踏みつける!――



「あぁ!!」

 ろくに言葉らしい言葉を出す間も与えられず、アビスは再び腹部を床に密着させる破目になる。背中には鈍い痛みが走り始める。

「どうしたんだ!?」

 男は再びアビスの背中を強く踏みつける。ミレイと比べてまるで手応えの感じられないアビスに一種の失望を感じたに違いない。

「うっ!」

 男の巨大な足と床に挟まれ、アビスは痛みのあまりに無意識な声を飛ばす。あの木片の攻撃以来、まだ攻撃らしい攻撃はおこなっていない。

「もっとおれを楽しませてくれねぇのかぁ?」

 満足感を味わえない男はうつ伏せ状態のアビスの胸倉を狙い、無理矢理アビスの首元と床の間に無理矢理手を捻じ込み、そして、



――強引に立ち上がらせる――



「お前弱過ぎ……」
「うあぁああああああ!!!!!」



――アビスの気合……――



――同時に放たれるアビスの右拳……――



「……」

 男の顔面に入った、アビスの拳。気合に上乗せされ、威力もかなりのものと化したであろう。男はアビスの胸倉を離し、黙り込む。

「やった……か?」

 アビスも自分自身の力量に期待を覚えたに違いない。これでもハンターなのだから、腕力はなかなかのものだろう。

「お前……」

 だが、男はすぐに声を発し始め、すぐに次の言葉を受け渡す。



「アホかぁあ!!」



――低い声による怒鳴り声、そして、一発の右拳……――



「う゛ぁ゛あ゛ぁ゛!!!」

 突然の超威力のパンチを受けたアビスは口の中で出血を起こしながら床へと倒される。先程のアビスの攻撃は殆ど意味の無かったものだ。

 ミレイのあれだけの攻撃を受けても平然としていたのだから、納得の行く話だ。

「やっぱ弱すぎるぜ、お前」

 倒れたアビスに近寄りながら男は相手を軽蔑けいべつする言葉を発する。

「ミレイ……頼むよ早くこいつ何とかしてく――」
「女頼ってんじゃねぇ!!」

 痛む左頬を強く押さえて上体を起こして立ち膝の状態になったアビスは男でその姿は直接は見られないものの、それでも確実にいるであろうミレイに向かって助けなんかを求めるが、男の足がアビスの加勢を求める言葉を遮ってみせる。



――爪先がアビスの腹に食い込んだのだ……――



「う゛ぅ゛!」

 息が詰まる苦しさに数滴の唾を飛ばしながらアビスは床を転がり、そして立ち上がる力も奪われ、両手で腹部を押さえつける。

「お前、もう話になりやしねえ。散々女に闘わせといてお前は黙って傷の手当のんびりしてもらってか? んで女が本気でヤバくなって初めて来たと思ったらすぐこれか。やっぱ尚更始末してやっからな」





――だが、男の背後に残された者を忘れてはいないだろうか?――





――もう、立ち直っているのだから……――





「あんたの……はぁ……はぁ……相手は……はぁ……はぁ……あたしよ……」

 男は背後から聞こえる、乱れた呼吸の中でも尚戦う意識を払拭せずに自分に歯向かおうとする少女の声に反応すべく、面倒そうに背後に顔を向ける。



――しかし、よくここまで立っていられるものである……――



「あぁ? お前もしつこい奴だぜ」

 全身を小刻みに震わせながら立っているミレイに向かって一言だけ浴びせる。

「あのさぁ……はぁ……はぁ……再確認だけどさあ……、すぐ後ろって……あんたの乗り物……あるんだよねぇ……」

 まるでとある覚悟でも決めたかのように、ミレイは多少呼吸は荒いままであるが、少しだけ余裕を持たせたような様子を見せながら、自分の背後にある扉に右親指を差して男に訊ねる。

「ああ、そうだぜ。これからお前らをちょちょいと片付けて、纏めて持って帰ってやるって計画、終わらせるとこだ。そんな事聞いてどうする? 今頃命乞いか? 今頃なんてもう遅――」
「助けてもらう気なんて無いわよ」

 男は頭の中で思い描く計画をミレイに話し、そしてそれを聞いた相手に対し、ようやく自分の恐ろしさに気付いてくれたのかと、わざとらしく聞くが、ミレイはあっさりとそれを言葉で払い飛ばした。

「あぁ?」

 気の入っていない男の言葉に怯まず、ミレイは再び喋るのを続ける。

「あんたにとってアビスはいつでも倒せんでしょ? だったらいっその事あたしをさっさとやっちゃえば? ほっといてたらこんな感じで体力元通りになっちゃうわよ? 早くかかって来れば? ドスファンゴみたいに一気に体当たりでもして後ろの乗り物にでも放り込む? まあ、兎に角さっさとかかって来な!」

 本人は気付いているのだろうか。いつの間にかあれほど苦しそうにしていた呼吸を全く荒らす事無く、ほぼ平然な口調で男に言い放っているのである。身体中の傷は相変わらずであるが、再び利き足のである右足を引き、構えの体勢を久々に作り、前に出ている左手を自分側へ招くように動かす。

 やや腹部には液体が垂れるような感じが走るが、今はどうでもいい。



――そして最後の言葉が、男の闘争本能を改めて目覚めさせる……――



「この百貫ひゃっかんデブ!!」

 あまりにも単刀直入な身体的構造の表現に対し、男は遂にアビスを突き放し、そしてミレイへと身体ごと向き始める。

「言ったなぁ!! この糞尼くそあまぁ!!」



――男がミレイに向かって身体を走らせる!――



――男とミレイの距離はそう離れていない……――



――失敗すれば、今度こそミレイは……――



(!!)



―― 一瞬ミレイの意識が揺らぐ……――



――だが、すぐに我を取り戻す。こんな所でくたばる訳にはいかないのだから……――



 拳を握り締めながら自分へと向かってくる男をしっかりと眼中に捉え、自分と相手の身体がぶつかるその瞬間である。



――ミレイは跳躍し、男の頭上の位置を捉える――



 飛び上がったミレイはそのまま両手を男の太い肩に乗せ、男の上で身体を上下逆にさせる。

 そして素早く身体を捻り、右手を非常に強く握り締める。

 落下ざまに戸惑っている男の脳天を落下の勢いと合わせて渾身の一撃で殴りつける。

「うあぁああ!!」
「う゛あ゛っ!!」

 最初の少女らしい甲高い気合の声と、中年の男らしい低い悲痛な声がそれぞれ順にあがる。

 攻撃を加えたミレイは元々身体が床に対して上下逆であったが、攻撃を加えると同時に本来あるべき方向へと戻し、着地時に大きくしゃがみ込むも、それは着地の失敗を意味するものでは無い。



――立ったまま硬直している男の背中に向かってミレイは蹴りのコンビネーションを渡す……――



「終わらすんじゃなかったの!?」

 そのミレイの台詞と同時に右足による前蹴りが入り、そして素早く背中を向けると同時に左足での後ろ蹴りが入る。

 そして次は再び右足に戻り、身体を軽く横に向けた状態で今ミレイを見ようと前を向こうとしている顔付近を目掛け、右足を頭部へと真っ直ぐ飛ばす。



――最後は左足によるソバットである……――



「うおっ!」

 男もやはり痛みには耐え兼ねていたのだろうか、ミレイのその連続攻撃により、その巨体はどんどん扉へと押し出され、最終的には扉と身体が密着状態と化する。

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