いくら男が耐える力が失われつつあるとは言え、あれだけの巨体をただ純粋に押し出していくだけの脚力を持つミレイもかなりのものである。

「これで終わら……!」

 最後の止めを決めようと、ミレイは足を走らせるが、突然、それは静止された。



――いきなり両足の力が抜け、床へと前のめりに崩れたのだ……――



 一時いっときではあったが、疲れを押し殺していたのもやはり無理しての事だったようだ。今までの過度の体力消耗を考えれば無理も無い話だ。



――既に全身の至る箇所が悲鳴をあげているのだ……――



 まるで感覚が失われたような、ある意味で未知なる状態が容赦無くミレイの動きを締め付ける。痛みすらまともに感じ難くなった身体のほぼ全てとも言える部分が一種の恐怖を覚えさせてくれる。感覚が無くなった状態でさらに酷使すればどうなるか、それを考えただけで怖くなる。

 今のミレイは床で四つん這いのような状態で非常に苦しそうに呼吸をしている。



――全身を包み込む多量の汗

――頭部からも血と混じって容赦無く流れ続ける汗

――上半身、下半身関係無くほぼ全身に走る擦り傷、切り傷、打撲等の激痛

――更に、朦朧とし始めてきた意識

――それらが全て合わさり、思わず改めてミレイは両目を苦しそうに強く閉じる。呼吸を途切れさせずに……



 だが、ここで終わる訳にはいかない。今ここで肥満の男を倒せる可能性を持つ者はミレイしかいないのだから。アビスはまず無理だ。いくら自分が苦しんでいようが、最後の最後で決めなければ、ここで最終決定の印を押されてしまうのだから。



■ ■ ■ 暗闇の終焉ゲームオーバー □ □ □



 勿論、こんなものを受け取る気は、まず無いだろう。

 ミレイは全身から湧き上がる悲鳴をほぼ死ぬような気持ちで堪え、一度扉の前でよろめく男を霞み始めてきた両目でしっかりと捉えて首を左右に振り、意識を回復させる。



――そして……――



「はぁああああああ!!!!」

 客車全体に響く気合と共に強引に立ち上がり、同時に男へと向かって疾走する。



――これが本当に、最後の攻撃ラストフラッシュとなるだろう……――



――痛む身体にげきを飛ばし……

――残された雀の涙程の体力を振り絞る!



 男がミレイの疾走に気付いた時には既に手遅れだった。既にミレイは飛び上がり、最後の最後だからこそ出来るであろう蹴技を見せ付けたのだから。

――最後の最後まで、飛び上がってから一度も床には降りずに、全てをその短時間で見せ付ける!!








● ● ○ ○ First kick!/一撃目の蹴り! ○ ○ ● ●


――大きく飛び上がり、そして右後ろ回し蹴り!!


▲ ▼ △ ▽ Second edge!/続いて二撃目! ▽ △ ▼ ▲


――回転の勢いを殺さず、そのまま左前蹴り!!


★ ★ ☆ ☆ Final madness!/最後の三撃目! ☆ ☆ ★ ★


――殺されない回転の勢いを極限まで使い切り、最後の右後ろ回し蹴り!!








 それらの空中での三連続の蹴りは全て男の顔面に的確に命中し、回転の勢いだけでは無く脚力も全く余す事無く全てが注がれる。その激烈な一撃一撃に男は耐えられなくなるも、男の背後にある物は扉である。

 そして、扉までもがミレイの衝撃に耐えられなくなり、最後の三撃目を入れられると同時に一気に全壊を起こし、男はその奥の世界へと飛ばされる。

「うあぁあああ……!」

 男は苦しさを携えた短い悲鳴を飛ばしながら、鼻血を噴出し、そのまま扉の奥の、後部客車に連結させていた車両へと飛ばされる。

 一瞬だけ、ミレイは公共物を破壊するのはどうかと考えたが、男を食い止めるにはこれしか無いのだから、躊躇とまどう事はしなかった。いや、極限状態の中で躊躇とまどう事は出来なかった。



――着地と同時にミレイは安堵の息を吐く――



「はぁ……はぁ……」

 安堵とは言うものの、その呼吸は非常に荒い。男が再び起き上がって迫ってきたらどうしようと言う不安よりも、まず自分の呼吸が大切だったのかもしれない。ミレイは両目を強く閉じながら汗に塗れた身体が前のめりに倒れそうになるのを、両手をそれぞれの膝につける事で辛うじて耐える。



――そして背後にいるであろう、アビスに一言声をかけようと、後ろを向くが……――



――いつの間にか黒いタンクトップの賊達が呆然と、ミレイを眺めていた……――



「ボス……」

 ミレイからのあの攻撃を受けたが、時間の経過で復帰をしたのだろうが、彼らの統治者が倒された事により、それ以上の声があがる事は無かった。

 アビスはその賊達がやってくる頃には適当な場所を探し、席の方へと身を寄せている。

「あんたら……ね……。あんたの……はぁ……はぁ……大将倒した……はぁ……から……さっさと……行ってくれる?」

 ミレイはふらつく身体何とか立たせた状態で保ち、そして汗が目に入って多少開けるのに苦労を覚えるも、それでもやはり最後にやり残した事は片付けなければいけないと言う精神で、痛む右手を持ち上げ、親指を男が吹っ飛んで行った場所に差しながら命ずる。



――だが、賊達は黙っている……。リーダーを倒したミレイに怖がっているのだろうか?――



「早く行けってんの分かんない訳? ……はぁ……はぁ……それとも……はぁ……はぁ……あんたらも……あいつとおんなじ目に……はぁ……はぁ……遭いたい?」

 何も反応を見せてこない少年達に向かってミレイは再び言葉を浴びせる。同時に先程は弱りきっている事を明確に伝えるかのように細くなっていた目を殺意を覚えたような鋭い目つきに変貌させる。緑色の前髪で多少隠れた目元が恐ろしさを沸きたてる。そして、ゆっくりと少年達の場所へと歩き始める。両拳を握りながら。

 だが、今のミレイの状態で四人の男を相手に闘えるかどうかと言う不安がきつく残るが、賊達の選択肢は既に決定していた。



――ゆっくりと、ミレイに向かって歩き出すが……――



 少年達は無言で、ミレイのすぐ横を通り過ぎる。ミレイは通路の中央に立っている為、賊達の移動の妨げになる訳であるが、それでもミレイは微動だにしなかった。ミレイが道を素直に譲れば、力関係が賊達側にある事を認めてしまう事になってしまうからだろう。

 だから、ミレイは自分からは動かず、少年達に端を通らせる。しかし、ミレイの今の状態では少しでも殴られれば即倒れてしまうような状態だが、賊達は攻撃等一切せず、不安な表情だけを浮かべ、ゆっくりと扉の奥に連結されている車両へと姿を消していく。

 その沈黙の世界の中でミレイは少年達が連結車両に乗り、最後尾の客車との連結状態を解除するのを確認し終わった後に、再びアビスのいる方向に向き直し、彼に声をかける。

「アビス……はぁ……はぁ……やった……わよ……あたし……」



――勝利した事が嬉しかったのだろう――

ミレイはわざわざ左手を持ち上げ、親指を立て、
真っ白に並んだ歯を見せ、左目を閉じてウィンクまでしながら、苦しそうに笑顔を見せる。

ウィンクと言う行為は、可愛らしさだけで勝負するとなるとクリスにはまるで敵わないが、
ハンターらしい凛凛しさとして考えると、違う意味でまさっていると言える。



「でも……お前メッチャヤバそうじゃんかよ。丁度俺の隣のあの人お医者さんかなんかみたいな感じの人だったからさあ、すぐ見てもらえよ」

 いくら勝ったとは言え、ミレイの全身の傷を見れば誰だって黙っていられるはずが無いだろう。アビスは先程隣に座らせてもらった女の乗客が医師の人であった事を思い出し、その人からその場で手当てをしてもらう事を提案する。実際、アビスもその人から軽い手当てをしてもらったのである。証拠にガーゼが何枚か、顔に貼られている。

 アビスはミレイに走り寄りながらそんな言葉を発するが、ミレイは多少強がった素振りを見せ付ける。

「だい……じょうぶ……。ちょっと……あた……し……他の……皆さんに……迷惑……かけて……たから……もう……これい……じょうは……なんも……――」

 ミレイは強がりながら、ゆっくりと、呼吸を荒げたままの状態でアビスの元へと進もうとするが……



――遂に全身を駆け巡る激痛と、限界を既に通り越した疲労に精神が耐えられなくなり、足の力が抜け落ちる……――



「うわぁミレイ!!」

 突然前のめりに床に向かって倒れ始めたミレイを見てアビスは茶色い目を真ん丸くさせながら素早く近寄ろうとするが、倒れ切るまでに到着するには無理があった。

 だが、ミレイは床には激突せずに済んだのだ。



――すぐ隣に座っていた初老の男の乗客がミレイを受け止めてくれたのだから――



 その男性が受け止めてくれると同時に周囲が騒がしくなる。先程までは肥満の暴漢との闘いの影響で無駄な巻き添えを受けないよう、黙っていたのだが、もう今は恐るべき男の姿は無くなった。

 いなくなったとは言え、今のミレイの身体は尋常では無い状態だ。その血のあとあざを見れば誰もが黙っていられるはずが無い。

 最初にミレイを受け止めてくれた男性はすぐにうつ伏せ状態から仰向け状態に移し、呼吸をしやすい体勢にさせる。実際、ミレイの呼吸は再び荒くなり始めている。気道の確保をしなければ苦痛を呼んでしまう可能性があるのだから。

「ミレイ! お前どうしたんだよいきなり!」

 アビスはミレイの周りに集まる乗客達をやや乱暴に押し分けながらミレイに近寄り、抱きかかえている男性からやや乱暴に奪い取るかのように、ミレイを自分の手元へと寄せる。



――それにしてもアビスの両手に伝わる感触は凄いものがあった――



 アビスの右手はミレイの後頭部を支え、左手を背中に回しているのだが、両手に伝わるのは汗による濡れた感触と、熱である。上半身に纏っている黒い肌着が薄いと言う事情もあるのだろうが、服越しとは言え、汗の量がいかに凄まじいかが手に取るように分かる。

 その量に伴い、周囲に放たれる汗の独特の匂いも非常に強く、アビスは勿論、他の乗客達もしっかりと感じ取っている事であろう。だが、不思議と不快な気分になる事は無かった。理由は分からないが、無理して離れようと言う願望が沸いてこないのだ。当然、愉快と言う訳でも無いのだが。

「お前やっぱ無理しまくってたんだろ!? っつうか、もうマジヤバいだろ!?」

 まだ距離を置いていた時はアビスも大体傷は酷いと想像していたが、至近距離でそのミレイの顔に付けられた痣や傷跡を見ると、改めて恐ろしい状況の中で必死に頑張ってくれていたのだと関心すると同時に一種の恐怖まで覚え始める。



――下手をすればこのまま死んでしまうのでは……――



 流石にそこまで行くのは有り得ないかもしれないが、ミレイの両目は完全に閉じる一歩手前まで塞がりかけており、呼吸も恐ろしい程に荒い。アビスは結局ミレイに何を求めているのか分からないような焦りにほぼ支配され尽くした言葉をぶつけながら、返事を待つ。

 ほぼミレイと顔を合わせるような位置取りをしているのだから、アビスの顔面目掛けて何度もミレイの熱だけの感覚を帯びた息がかかるも、やはり容態の方が重要なのだから、気にする事は無かった。

「あた……しは……だいじょ……ぶだから……はぁ……はぁ……すぐ……はぁ……はぁ……起き……るから……」

 激痛と激労により、意識が朦朧としつつも、ミレイは自分に必死で話しかけてきているアビスに向かって、呼吸だけは譲れなくても、態度だけでも多少強がっていてやろうと言う気持ちで無理矢理笑顔なんかを作るが、アビスは騙されなかった。

「大丈夫な訳無いだろ! って! 無理しないで、それよりちょっと医者みたいな感じな人呼んで来っから、ちょっと待ってて!」

 アビスとしてもミレイの血の映った傷を見て黙っていられるはずが無い。それでも格好をつけようとするミレイに反発するように、抱き抱えたままの体勢でアビスの手当てをしてくれた女性の人を呼ぼうと、ミレイをゆっくりと床に下ろそうとするが、呼びに行く必要はすぐに無くなった。



――呼ばれるべき人物がもう近くに来ていたのだから――



「呼ぶ必要は無いわよ。このね、ちょっと見せてくれる?」

 一時的にアビスの隣同士になっていた女の乗客が白い救急箱を片手に群がる他の乗客達の間を通りながら、やがてミレイの隣にしゃがみ込む。

「あ、はい! お願いします! ミレイ、今この人が見てくれるっつうから、ちょっと痛いかもしんないけど、まあ兎に角大丈夫だから!」

 アビスは医師の技術を持つであろうその女性に対して安心しきった笑みで頷き、そしてミレイに向き直り、薬剤によって染み込む痛みを予め告知しながら、やや確信性に薄い希望を持たせようとする。

「ちょ……待って……はぁ……はぁ……ここじゃあ……じゃ……まに……はぁ……はぁ……なって……ると……思……うから……」

 相変わらず途切れ途切れで非常に聞き取り難いミレイの言葉であるが、いくら体力が尽きかけているとは言え、このような床のど真ん中でずっと横になっている訳にはいくまいと、上半身に力を入れて立ち上がろうとするが、思うように身体が動かない。

 それ所か、徐々に目の前が歪んでいくのを覚え始める。

「だからって! 無理に喋んなよ! 今すぐ治療とかしてもらえっから、あんま気にすんな! 邪魔とかそんな事多分無いから!」

 ミレイの荒々しい呼吸を見て分かる通り、アビスはただ言葉を発するだけでもアビスには分からないような想像を絶する苦痛にミレイは襲われているのだろうと感じ取り、治療を理由に黙らせようとするが、やはり焦っている為にその内容は僅かながら意味に曖昧あいまいな部分が残ってしまっている。

「そう……? ありが……と……」



――目の前が歪んでいたのは、とある前兆だったようである……――



――激痛に支配されたミレイの身体は徐々に力を失っていく……――

既に敵対する相手を倒したのだから、もう力を振り絞る必要が無くなったからだろうか。
そして、今目の前には確実に自分を庇護ひごしてくれる異性の友人がいてくれるのだから、
一気に緊張感が全身から抜け落ちたのだろう。

安心し切ると同時に忘れかけていた激痛が一気に発動し始め、今、改めて
本来ならばほぼ動けなくなってしまうと言う状況を理解する。
それに従うかのように、立ち上がる力さえも容易く奪われ、
そして徐々に意識も遠のいていく。



「っておいミレイ! ミレイどうしたんだよ! おい!」

 アビスは徐々に閉じていくミレイの青い瞳を真剣に見つめながら声を荒げ続けるが、ミレイから返事は返って来ない。

 元々体力的にも限界を余裕で超えていたのだから、無理して口を動かす必要は無かったのかもしれないが、いざ無言となれば、アビスも驚かずにはいられなかったのだろう。



――やはり、ミレイはこれ以上強がるのは不可能だった……――



(ごめん……なさい、アビス……。少し……だけ休ませて……)



 直接言葉に出す気力が残っていなかったのだろうか、ミレイは心の中でアビスに改まった謝罪を投げかけながら、少しだけの我侭わがままを勝手に行おうとする。

 もう既に自分がどれだけの負傷を背負っているのかもよく分からない。身体の至る所に激痛が走っているものの、痛みが重なり過ぎて本当に痛いと認識しても良いかも分からない。

 だが、どうしても力が入らず、そして、力を維持しようとしても全く叶わない。



――やがて、ミレイは周囲の乗客達が見守る中で、ゆっくりと……力尽きた……――

前へ 次へ

戻る 〜Lucifer Crow〜

inserted by FC2 system