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傷と
少女と比べれば殆ど掠り傷と言っても良い程度のものを持った少年。
肥満、そして巨体の男を倒したとは言え、そこで受けた傷はあまりにも大きすぎた。
だからこそ、狩猟には赴けず、国立病院の病室で少女はゆっくりと身体を休めているのだ。
そして、休める程の傷を受けていない少年の方はと言うと、
少女と共に病室の中でとある会話を交えさせている所である。
「そう言えばさあ……」
「ん? なんかあった?」
アビスに話しかけられたミレイはその青い視線を窓からアビスへと移し、彼が言いたがっている内容を聞こうとする。
「あん中で俺らに突っかかってきたあいつら、今頃どうしてんだろ? って思ったんだけど、お前はどう思う?」
ミレイの実家からの帰りの機関車内で遭遇した妙な賊四人組と、巨大な肥満の男の合計五人のメンバーは、見事なまでにミレイたった一人によって敗れ去った訳だが、その後の行方をアビスは自分で考えようとせず、ミレイに答えを出してもらおうと、椅子の背凭れに右肘を乗せる。
「いや、どうって言われても……。多分今頃ミリアムとか言う奴にこっ
発言権を半ば強引に引き渡されたミレイは最初は包帯に包まれた右手を顎の下に持って行きながら戸惑いを見せるが、とりあえず自分の持っている考えをすぐ横に座っているアビスに言葉で渡す。
「ああそっかぁ、あいつらお前にやられた……ってかミリアムって誰?」
――アビスにとっては初めて聞いた
初めてのその名前が出た事により、アビスの質問はこれで終わらなくなってしまう。今度の質問内容は新しく出てきた名前についてだろう。
「ああ、そう言えばまだ言ってなかったんだもんね……。えっと、ミリアムってのはなんかあたしもよく分かんないんだけどさあ、あの妙な集団仕切ってるっぽい奴なのよ。なんかハンターに対してなんかしらの因縁みたいなの持ってるような、まあ兎に角意味よく分かんない奴かな?」
ミレイは激闘の中で聞き出した話をしっかりと覚えており、それを自分でも理解は仕切っていなくても、とりあえずは説明を最後まで済ませる。
「因縁? それって結局どゆこと?」
アビスは相変わらず物分かりが悪いようである。質問ばかりするアビスであるが、ミレイは身体の痛みはまだ抜けないながらも、冷静に対処していく。
「えっとね、なんかあたし達ハンターがいるせいで飛竜達が復讐の為に凶暴化しただのってなんかよく分かんない理論とか飛ばしてきててさあ、それでなんかあたしらの事始末しようとしたらしいわよ」
ミレイは未だに右手の上に顎を乗せたまま、左人差し指で空中に何かを描くように動かしながら連中が襲ってきた理由を説明する。
その説明の最中はミレイは軽く笑みを浮かべており、やる事の大胆さと、相手とやり合うにしては意外と弱かった部分がミレイをそうさせているに違いないだろう。
「なんか、よく分かんないけど、それでお前……あんな闘い始めたって訳かぁ……。正直言っていい?」
アビスはとりあえずミレイがあれだけの激しい闘いを始めた理由を理解したようであるが、何か特別に聞きたいものを持っていたらしく、意を決するかのように、訊ねる。
「ん? 正直って、何?」
一体アビスが何を求めているのか、ミレイとしてはやはり気になるものである。妙な聞き方に多少戸惑うも、その続きを求める。
「よくあんな化けもん染みた奴とやりあったよなぁってさあ……。普通あんなのとやったら殺されたりしね?」
苦笑を浮かべながら、アビスは機関車の中で出会った妙な連中の中でも特に恐ろしかったであろう、あの肥満の男を思い浮かべ、嫌な事を勝手に思い浮かべながらミレイに聞いた。
「それだけど、やっぱりあう言う場面ってさあ、逃げたくても逃げれない訳じゃん? だからもうどんなにやられても絶対下がっちゃ駄目だって、ずっと自分に言い聞かせてたからさあ、だからあんまり怖いとかそう言うのは無かったけど、今考えたらちょっと怖いかも……」
ミレイは苦笑するアビスに対して右手を動かしながらその場の状況での適切な行動を説明し始める。
いくら現場で恐ろしいと直感した所で相手はそれに合わせてくれるとは到底思えない。もし本当に怖いのならその場から逃げ出せば済むかもしれないが、機関車内ならそれはほぼ無理に等しい。
そして結果的にミレイは全身に傷を作りながらも殆ど単独で勝利を手に入れた訳であるが、やはり今思い起こせば本当に恐ろしい話である事に間違いは無い。
「怖いってお前……。あんな怪物相手って逃げるとか逃げないとかの問題じゃないだろ? やっぱお前ってすげぇよな……」
アビスにとっては、純粋に大柄な男に出くわせば、自分の職業に関係無く恐怖を覚えるものだと認識しているのだろう。しかし、ミレイは異なり、その堂々とした態度が凄くて仕方が無かったのだ。
「まっ、そこは今までの経験を活かすってやつよ? ハンターだったらどんな時でも臨機応変に対応しなきゃって言うじゃん?」
――その後、病室のドアが開き……――
「貴方何呑気な事言ってるの?」
入ってきたのは、中年のナースであった。淡い桃色の看護服を
「あれ? なんかありました?」
この女性は機関車内でアビスとミレイの応急処置をしてくれた人物であったが、アビスはその女性の台詞を聞くなり、どうしてそのような言葉を言ったのか、気になり始める。
「あの男の事、貴方達知ってるの?」
まるでじわじわと締め付けるような事を女性は二人に問うが、二人が分かるはずは無いだろう。
「知ってるって……えっと、なんか変な組織の一人で――」
「そうじゃなくて、あの男ギルドの方でも指名手配されてた人間でね、凄い凶悪な強姦殺人犯なのよ」
アビスは今ミレイから大体の話を聞いていたのだから、男の所属くらいは分かっていたつもりであったが、本性を知っているはずは無かった。女性から出たその答えは、二人を震え上がらせるには充分なものだった。
――人殺し、そして……――
「は……はい……って、て言うかどうしてあの男の情報なんて知ってるんですか?」
ミレイは小さい声で恐る恐ると言った様子で返事をするが、それより、男の姿を見る事が出来ないはずの立ち位置にいるナースがどうして男の詳細を知っているのかが気になり、聞こうとする。
「それね、この前その男と仲間の賊達が機関車の路線上で逮捕されたのよ、ギルドにね。その時の機関車に乗り合わせていた人達の証言で一人の少女に暴行加えてたって事で即刻御用ってとこね」
どうやらあの肥満男は捕まったようである。ミレイによって倒された後は、ミレイ達は男の事等まるで気にかける事をせず、ミレイのボロボロになった身体の事ばかり気をかけていたが、別の力によって男が拘束されたのは都合の良い話だろう。
「あ、なるほど、結局あいつら捕まったんですね! ちょっとざまあ見ろって話ですね」
ミレイ自身もあの肥満男には相当な恨みを持っていたのだろうか、表世界への自由を奪われた事に対して非常に気楽そうな明るいトーンの声色でアビスの顔を見ながら言った。
アビスはと言うと、何か頭の中で一つの疑問が浮かび上がっており、そこばかりを気にしていた。
「あ、あの、殺人ってのは分かんですけど、ごお……かんって何?」
アビスはその男の本性である『殺人犯』と言う言葉のすぐ前につけられていた言葉に対して質問を投げかけるが、それを聞いたミレイはと言うと……
「何よ?」
内容が内容なのだから、ミレイは苛立ちを込めたような低い口調でアビスを軽くではあるが、睨みつける。
「え、あ、いや、ちょっと意味が分かんないからさあ、どんな意味なのかなぁって……」
アビスは結局その意味が分からないからただ聞いているだけであるが、意味を理解していないと損を招く事があるのかもしれない。
「それはねぇ、まあ、簡単に言えば力で女性を抑える暴力行為ってやつかな。あんまり詳しくは言わないけど」
ミレイはその言葉に含まれる
「な、なるほどね……」
アビスは深い意味を理解する事は出来なかったが、どうやら暴力行為を周囲へと撒き散らすと言う恐ろしい様子だけは理解出来た。
◆アビスの脳内に浮かぶ
暗闇の中に存在する肥満男。
光の無いこの場所では黒く照らされる。
その中で、男は白目を剥き、
両手には男と比べれば非常に小さく見える少女の頭が握られており、
乱暴に首から下の胴体を振り回されている。
辺りには血が飛び散っており、更には既に襲われて
息絶えたであろう少女達が無数に転がっている……。
この想像の中ででも、この男は凶暴化を継続させるのだろうか……?
そして、アビスは何故か妙に軽い笑顔になり、ミレイに何かを訊ね始めようとする。
「あ、あのさあミレイ、その、ごお……かんとか言う話だけどさあ」
内容としては本来ならば聞くべきでは無いものだろうが、アビスは友人としてなのか、無理して聞こうとしている。
「なんでそこ
やはり内容の都合からか、ミレイの低くなった口調に怒りが混じっているような雰囲気を覚える事が出来るが、それでもアビスは話をやめようとしない。
「やっぱ〜……それってかなり、んと、最低な行為っつうやつなんだよなぁ?」
犯罪行為に扱われる言葉だからこそ知りたい何かがあるのかもしれないが、アビスも結局の所は気まずそうである。
「勿論最低最悪な
ミレイの口調は相変わらず低く、そして威圧的なものだった。内容が内容なのだからしょうがない事だろうが、その内容をしっかりと理解していないアビスはある意味不幸であろう。そして、ミレイはその話題を切り上げようとしているが。
だが、それでもアビスは何とか誤魔化してみせようと、笑いを作りながら口を動かす。
「えっともしさあ、俺がお前にそんな事したらまず――」
――突然ミレイは怒鳴るまではいかないが、明らかに怒った口調でアビスを遮った……――
「あんたさあ! 意味ちゃんと理解してないくせにふざけ半分で軽い気持ちで考えるのやめた方いいわよ!?」
ミレイは突然物凄い剣幕で目の前にいるアビスに向かって鋭い言葉を飛ばし始める。
「あ、いやぁんと、あちょっと試しにってやつだよ試しに」
怒り出したミレイを
「試しにとかじゃなくてさあ、あんたあの意味完全じゃなくてもちょっとは分かってんでしょ!? 男同士だったら別にいいけどさあ、そう言う事あたしに言うのってちょっとおかしいわよ!?」
やはり意味を熟知しているミレイにとってはその言葉を使ったジョークもただ怒りを呼び寄せるだけの存在だったようである。
アビスのその異性相手にするにはとても相応しくない話題に対してきつい忠告でもぶつけるような態度は恐ろしさすら感じ取れる。
「いや……だから……んと、ジョークだよ、ジョーク……」
まるでアビスはほぼ同年齢の少女に僅かな差で置いていかれてしまったような
「何よジョークって!? そうじゃなくてさあ、ちゃんともうちょっと考えて物言ってくれる!? あんた下手したら信用無くすわよ!?」
怒りが収まらないのか、ミレイはそれでも友人に対しての忠告と言う意味を忘れないかのように、しかし恐ろしい剣幕で未だ声を荒げ続ける。
「ちょっとミレイさん、貴方言いすぎじゃないの?」
ナースはミレイのその一変した態度に妙な感じを覚えたのだろうか、布団の中できっと拳を握り締めているであろうミレイに近寄り、肩を引っ張るようにアビスへの責めをやめさせようとする。
「あ、んと、ごめんなさい……。でもちょっとデリカシーが感じられなかったからちょっと苛々しただけです……」
言われて初めてミレイはいくら何でもきつく言い過ぎていたのかと、ようやく口元を緩め始める。ナースがいる事も半ば忘れ、アビスと二人だけの空間であるかのように大声を出し続けていた自分に恥ずかしくなる。
「えっと、あの、俺も悪いんです……、ははは……」
元々と言えば、アビスが言葉の意味も理解しないで遊び半分で喋り続けた結果このようになったのだ。
だからミレイばかり言われているのを黙って見ている訳にはいかなくなるも、先程ミレイに言われた事がまだ心に染み付いていつものテンションを保持出来なくなってしまっているのか、短い言葉で終わらせる。
「アビスさあ、意味ちゃんと分かってない言葉平気でバンバン言ってくるのやめてくれる? たまにだけどさあ、あんた凄い不謹慎な事言ってくる時あっからさあ、気ぃつけて。分かった?」
ミレイは一度いつものあの威圧感の無い高いトーンの声色で忠告し、アビスの内側に秘めた欠点を突く。そして、確認を取る。
「ん、んまあちょっとあれは、軽い冗談でさぁ……」
アビスは相変わらず誤魔化そうとするが、ミレイは別だ。
――再び声が低くなり、威圧的に再確認……――
「分かったぁ?」
――目つきだけで相手を殺してしまうような視線でアビスを睨む……――
「いや……わ、わか、った……よ……」
アビスはその少女とは信じ難いような目つきに圧倒されたのか、ちゃんと相手に聞こえているのか分からないような音量の声で、途切れ途切れに返事をする。
「分かればいいのよ。まああんまりさあ、変な事女の子相手にベラベラ喋んないで。男同士ならいいけどさあ、こっちは女だから、ちゃんと喋る時はさあ、意味合いとかそう言う事考えて」
やり過ぎだと言う事は
「良かった……所でお二人さん、今回貴方達ホントに凄く運が良かったわ。あの男の事だけど、下手したら二人とも殺されてたのよ。特にミレイさんはある意味自殺しに行くようなものだったわよ」
一度二人の仲の復旧を確認すると、女性は、普通だったら確実に滅びていたであろう命を無事に保ちながら戻ってきた事をまるで偶然であるかのように言い、そして最後にミレイへとやや老けた印象の見え隠れする視線を向ける。
「ですが……あの時はホントにやるしか無かったかと……」
ミレイももし自分の実力がもう少し劣っていれば、殺されていたと言うその可能性に恐怖を覚え、口調が暗くなり、そして顔も下へと傾き始める。
「確かにそうかもしれなかったわね。逃げた所で、きっと貴方は捕まって連れて行かれちゃうんだから、やれる所までやってみるって言う気持ちは充分
女性も状況は理解していたが、それでもミレイのあの決断と行動には無茶がありすぎただろう。
――普通、あれだけの
ハンターならば力強い肉体を持っているかもしれないが、それでも相手は下手をすれば素手だけで相手を撲殺出来てしまうような悪魔だったのだ。
そしてミレイは男からの重たい攻撃を受け続け、それでも勝利を収めたが、病室にいる理由が決して最高の
「昔もね、何人もの女の子があの男に襲われてね、勿論その中には貴方みたいに勇敢に立ち向かった
女性は男の過去を思い出しながら、ただ男の好きなようにやられてしまわないよう、反撃側に回った少女達の話を出す。
「でも、やっぱり……」
ミレイは
「うん、貴方以外全員負けたわ。ただ負けただけならいいけど、殆どが手足骨折してたり、歯折られてたり、後なんだろ、爪立てられて何針も縫わないといけなくなるくらいに肌傷つけられたり、最悪目を潰されるって事もあったわね」
女性の話した内容に嘘は無かったが、どれも笑って済まされるものでは無い。闘いの途中でいずれかの状態になれば、
動きを封じられるのが最も恐ろしい事だから、単純な力任せも馬鹿には出来ないと言う事だ。
「ま……じですか?」
その怪我の大きさを聞かされてアビスは震えるように、返答する。
「ホントよ。それに、もしそこまで行かなくてもあれだけの男相手にしてたら必ずいつかは気絶でもさせられてその間に本来の目的を果たすのよ」
女性の言い分は確実に正しいものであるが、そんな大男を相手にミレイは闘っていた訳なのだから、いつ
「じゃああたしって凄い危ないとこに置かれてたって訳……ですよね……? 良かった〜……あたし何回か意識ぶっ飛びそうになってましたから……根性無かったらきっとあれだった……って事ですか……?」
ミレイはその非常に最悪とも言える窮地のど真ん中に立っていた存在だったのだ。その事実を聞き、気絶せずに持ち応えた自分を誇らしげに見せるように、わざとらしく笑い始める。それでも気を抜いていたなら、確実に意識を奪われ、ミレイも被害者の少女達の仲間入りする破目になっていただろう。
「良かったじゃないわよ。そう言えば貴方まだ16だったわよね?」
女性の年齢確認に対し、ミレイは頷く。
「あ、はい、そうですけど」
恐らく女性は入院する際に受け取った保険証に書いてあった個人情報を覚えていたのだろう、ミレイの返事を聞いて再び話を始める。
「そんな歳で折角の可愛らしい顔壊されたら、ホントに取り返しつかなくなるからね。でも貴方、診察の結果は骨折も無かったし、それに後遺症も無いし、傷もちゃんと包帯取り替えていけば一週間くらいで治るから、これからはもっと自分の身体大切にしなさいよ」
女性はもう中年である為、
「あ……はい……、ごめんなさい」
ミレイは病衣の袖の上から左腕を弱々しく撫でながら、妙な心配を与えた事に対して小さく謝った。
――事実、ミレイの腕は折れていないし、それ以前に骨折箇所はどこにも存在しない
――そして、時折眩しさも見せてくれる白い歯は一本も折れておらず
――全てを見通すであろう透き通った青い瞳もどちらも欠損してはいない
――いずれも欠けていればもう異性を軽く魅了させるだけの自信が失われる事だろう……
――ただ、顔の傷や痣は酷いものがある訳だが……
「でもミレイ良かったじゃん。それだけで済んだんだから」
元気を失ったミレイを元気付けようとしたのだろうか、アビスは一応彼女は怪我をしたとは言え、一週間で治る程度のもので良かったと声をかける。
「うん。ま、まあそうだよね? 一応これでもあたし達ってハンターやってる訳だからそう簡単にやられちゃあ駄目ってもんだからね?」
アビスによって落ちたテンションが瞬時に復活したのだろう。ミレイは笑顔を取り戻し、自分がハンターである事を誇りながら力量にも
「……ったく。でもその感じじゃあとりあえず二人とも大丈夫ね? じゃあちょっと残ってる仕事があるから、それ片付けてくるから、後はちゃんとゆっくり休むのよ?」
二人のやりとりを見て一安心を覚えたのだろうか、女性は退室しようと、軽く白衣の乱れを整える。
「はい」
「あぁ、は、はい」
ミレイは戸惑う事無く返事をし、アビスは咄嗟にミレイに続こうとしたが、焦り出したせいでぎこちない対応となってしまう。
「それじゃ」
右手を上げながら、女性は病室を後にする。ゆっくりと閉められる病室の扉がどこか寂しさを表現してくれている。
――しばらく二人は無言となるが、そんな空間で口を開いたのは……――
「アビス……」
ミレイは椅子に座りながら口を開く様子を見せないアビスの名前を呼ぶ。
「ん……?」
呼ばれた方は口を殆ど開かずに反応を見せる。だが、目元はやや恐怖に駆られているような印象を受け、それに伴い、何故かその短い言葉にも気力が感じられない。
「今回はちょっと……」
ミレイは言いたい事をそのまま言おうとしたが、アビスに対して違和感を覚える。
――少しだけミレイを避けているような雰囲気だ……――
「な……なんだ?」
まるで何か根に持っているかのように、アビスはミレイと目を合わせる事に対して気まずそうに時折視線をずらしたりして、どうも落ち着きの無い様子を見せてくる。
「ってあんた、大丈夫?」
ミレイとしてはこれから少しだけ真剣な話をしようとしていたのだから、表情が真剣なものになっていたが、アビスのその態度に対し、ミレイは崩した笑みを浮かべながら、アビスを心配する。
「あ、いや……まあ、別にだいじょぶだけど……」
言葉では強がるアビスだが、喋り方を見れば確実に嘘だと言うのが分かってしまう。喋る事に怖がるかのように、小さく弱々しい声で対応するが、ミレイはそれで納得はしてくれなかった。
「さっきの事まだ気にしてんの? あたしちょっと怒鳴ったあれの事」
ミレイは心当たりのあるやり取りを持ち出す。アビスがここまでだんまりとなってしまったのはそれが原因であると考えたのだ。逆に、それしか考えられないかもしれない。非常にきつくアビスに怒ったのだから、
「いや……別に……」
相変わらず弱々しく否定しようとするアビスであるが、少しだけミレイの目に鋭さが入ったような気を受け、妙な事を言えばまた怒られると思い、しっかりとした形で返事を返すのが怖くなったのだろうか。
「だからさあ、あたしはただちゃんと考えてって言ってるだけ。さっきはかなりきつく言ったかもしれないけどさあ、別にそこまでずっと『根に持ってろ』なんて言わないからさあ、ねえ、ちゃんとテンション戻して。なんかあたし悪者みたいな感じになるからさあ、ね?」
やはりミレイはしつこく怒っていた訳では無かったらしい。それでもアビスにとっては深刻な問題であったらしく、おかげで
「あ、ま、まあわわ分かったよ。ちょっとマジごめんな、あんまりしつこい感じで、えっと、テンション低い状態でいて……」
アビスもまるで安心し切ったかのように何故か込み上げてくる笑みを浮かべながらミレイに再度謝罪する。
「まあそれでいいのよ。んで話戻すけど……、えっと、今回は……ちょっと……ごめんなさい」
突然どうしたのだろう。本題に入るなり、いきなりミレイはアビスに謝りだしたのだ。非常に気まずそうに、声を低めながら。
「ごめんってお前、どうしたんだよ? そんないきなり」
アビスはどうして自分に謝罪を投げかけられるのか理解出来ず、軽く笑いを零しながら両手の甲を合わせ、それぞれの指と指を間に挟める。
「いや、あの、あたしがあんたの事誘わなかったら病院のお世話になるのあたしだけで済んだってのにさあ……、巻き込んだようで、凄い悪いと思って……」
どうやらミレイは実家に戻る時にアビスと共に行ったせいで帰りの機関車での争いで余計な犠牲を出してしまった事を影にして持っていたようだ。
ただ、アビスも一応はハンターなのだから自分の身くらいは自分で守ったらどうだと言いたくなるが、ミレイはそれについて責める様子は見せない。
「ああいやいやいやいや! んな事ねっつうの! そんな事で別に俺お前の事恨んだりしてねぇから。俺が弱いのもちょっと問題だったんだけどさあ……ははは……」
ミレイは恐らく全てを自分のせいにしようとしていると、アビスは思い、何とか宥めようとあれこれと色々と言葉を並べてみせる。自分の弱さも問題であったとして、何とかミレイの意識している罪を和らげる。
「いや、弱いっつってもさあ、あの男は強い弱いで解決出来るような奴じゃなかったのよ? ってか寧ろあんな奴に勝てる事自体おかしい事よ?」
確かに今回ミレイが相手した強姦殺人犯の異名を持つあの肥満の男は、相手の攻撃をその
一応ミレイは無事に生還しているものの、正直な所、ミレイ自身も無事に戻って来れるとは考えていなかったらしい。
「でもお前はさあ、そんな事言ってるけど実際あいつとやりあってさあ、ってか殆どお前一人で解決してたんじゃね?」
アビスは身体の一部に軽く包帯を巻かれているものの、そこについては特に言及せず、勝てたかどうかも分からないと言っているミレイは実際、無事に勝利を収めているとして関心したような言葉を出す。
「そんな事無いわよ……。闘ってる間もさあ、ホントもう身体中痛くて痛くていつ倒れてもおかしくない状態だったし、あ、そしてさあ、あんたがあの男殴ってくれた時あったじゃん? あの時はホントに助かったもん……」
――機関車内でのミレイの疲労は最悪な
――動く神経が麻痺する程の激痛が全身に走り回り、微動でも常に表情が引き攣った……
――もし相手が
――だが、相手を倒さなければいけないと言う気持ちだけが、崩れかけていた精神力を保っていた……
――しかし、最後で、ミレイは遂に男に首を絞められた……
――傷ついた身体では単純な男の腕力に敵うはずも無い……
――だが、そこでようやく……
アビスが男を木の破片で殴ってくれたおかげでミレイは絞殺される寸前で解放されたのだ。もしあの時アビスがいてくれなければ確実にミレイは入院する余裕も与えられなかっただろう。
実質的にはアビスは戦闘には殆ど参加していなかったが、こういう隙を生み出してくれる仲間が一人でもいれば非常に心強いものがあるのだ。
「ああ、そう言えばそんな事あったな……。でもその後俺思っきりぶん殴られてさあ……一瞬死ぬかと思ったし……。ってかお前ってあんな感じのパンチ結構受けてたんだよなぁ?」
思い出したアビスはすぐにテンションを軽く落とし、そのミレイを助けた後に男から浴びせられた強力な一撃を同時に思い出した為に、あの時の痛みはもう二度と味わいたくないと、目を細め始める。
そして、椅子から立ち上がり、窓の外を眺め始める。自分の力の弱さが気に障ったのだろうか。
「結構ってもんじゃないわよ。もう何回もよ? でもあたしだって殴られるのは
とりあえずミレイは、その強烈な攻撃を何度も受けた事と、ただ相手から引き下がりたくないと言う一心で闘っていたと主張する。
「そうかぁ? お前が強いから切り抜けれたと俺は絶対思っけどなぁ」
ミレイが敢えて自分の強さを隠そうとしている事はアビスにはしっかりと見通しているのだろうか、アビスは自分が情けない事を隠すかのように、未だにミレイと顔を合わせず、窓の奥に移る街並みを眺め続けている。
「いや、そんな事無いわよ。ってかあの少年四人組ぐらいだったらアビスでも全然余裕でやれる程度だったし、それにあれだけの凶暴な男倒した訳だから、あの妙な組織も案外甘い造りだったりして……!」
やはりミレイは心の片隅で
「でも……やっぱお前ってメッチャ
アビスはどうしてもミレイの体術の凄まじさが頭から抜けず、それを羨ましがると同時に自分の力量をミレイと比べてしまい、徐々に自信が無くなっていく。
ミレイから返事が返って来ないが、アビスは再び喋り出す。
「お前どっかで秘密の特訓してたとか、秘密の組織か何かで強くなる秘儀学んだとか、色々やってたのか? あのさぁ……ちょっと頼みあんだけどさあ……」
アビスは窓に顔を向けたまま、少し恥ずかしそうに下に茶色い目を降ろしながら、まるで決心するかのように言いたい事を口に出す。
「俺に闘い方っての、教えてくんないかなぁ? お前だったらなんか……んと、教えるの上手そうだし……、それに、んとさあ、まあ
果たして、異性からものを教えてもらう事に対する恥じらいか、それとも講義料の免除に対する気まずさからか、突然声が詰まり出し、そしてアビスは胸騒ぎまで起こしてしまう始末である。
アビスとしては料金無しで教えて欲しいものではあるが、ミレイの返答が来なければ結果がどうなのかは分からない。
――しかし、ミレイからの返事が来ない――
「なぁ……いっかなぁ? それとも……やっぱ金は取んのかなぁ……? 或いは……めんどくさい……かなぁ……?」
アビスは照れ隠しのように視線を下げながら、ミレイの返事に少しばかり不安を覚え始める。
――だが、一向に返事が来ない……――
「なあ、どうだミレイ? ってか返事して、くんないかな?」
窓を未だ眺めたままでミレイの言葉を待つが、全く返って来ない為、
「なぁ?」
そろそろアビスは返事が来ない事に対して妙に思い始めたのか、一度問い詰めるが……
――全く返ってくる様子が無い……――
「なあミレイなんでお前返事してこ――」
遂にようやく、アビスは窓から目を離し、ミレイの方へと顔を向けるが、途端に声が詰まり、表情が引き
――なんと、
両腕で腹部を締め付けるように押さえ、足はまるで正座でもするかのように、ベッドの上で折り畳まれており、顔は下がっており、緑色のショートの髪によって多少隠れてしまっているものの、横から見てもしっかりと外の者でも理解出来る程に、苦痛に塗れた表情に仕上がっている。
――勿論アビスはと言うと……――
「ってミレイ!? お前どうしたんだよ!?」
アビスは距離の全く離れていないベッドへ駆け足で近寄り、苦しんでいるミレイの背中に左手を置きながら声をかける。
「ちょ……き……ず……が……」
ミレイはまるで息継ぎすら困難であるかのように、一文字一文字を搾り出すように、小さく呟いていく。未だ両腕が腹部から離れる様子は無い。
「き、ず? ってなんか傷がなんか痛むのか!?」
アビスは何とかミレイが伝えようとしていた言葉を読み取り、背中を左手で撫でたまま、そしてミレイの顔を覗き込むようにしながら、その読み取った言葉を確認する。
「……」
ミレイは直接口では返事は出来なかったものの、僅かに頷く素振りを見せた為、アビスには充分伝わった。
「わ、分かった! ちょい待ってろ! すぐ先生呼んで来っから!」
突然走った激痛でまともに動く事すら出来なくなり始めたミレイを一人だけにする事に不安を覚えるアビスであるが、アビスだけではどうしようも無い。
だから、不安を覚悟で病室を飛び出し、先程のナースを呼びに行く。