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情報倫理中間課題
『自由とは何か』

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『自由』の課題

 普段我々が何気無く口に出して、或いは心で思っている『自由』と言う言葉。しかし、我々は何を基準にして目の前の事柄を『自由』だと感じ取っているのだろうか。

 人は主に誰かに命令されたり、必ず特定の条件を満たさなければならない等の束縛的な決まり等が無い時にそれを『自由』と見なす事が多いだろう。例えば休み時間に自分の所持金でアイスを買ったり、面白い漫画を読んだり等、こう言った行為には通常、いついつまでにこうしないと駄目だとかと言った特殊な条件は一切無いと思われる。しかし、実は本当の意味では『自由』と言うものは存在しないのかもしれない。

 我々が言う『自由』的行動と言っても、結局はその裏では確実に『責任』が生じているのが分かる。休日には勿論大学は休みでアルバイトも休み、折角の休みなんだから今日はゲームに没頭しようか、と思ったとしよう。確かにこれはやってる本人は明らかに『自由』だと思い込んでいるに違い無い。今目の前に映っているのは好きなゲームの画面、そして期待を胸に膨らませてくれる壮大な物語であろう。しかし、ゲームをするには当然のようにテレビやゲーム本体、即ち、電力を動力として動く電化製品が必要不可欠。この行為をすればそれだけ電気代だってかかる。それを払うのが自分自身であろうが、親であろうが結局その代金を払うと言う行為そのものが『責任』となって『自由』の後にそれが回ってくる。それを払わなければ今後ゲームは愚か、実生活すらままならなくなるだろう。それはゲームだけに限られた事では無い。好きな物を食べるのだって結局は代金がかかってるし、それに時間だって奥深く見れば実ははっきりと限られている。例え休憩時間が1時間あったとする。その買った食べ物の量にもよるが、普通は1時間もかかる事は無いだろうし、そこまで時間と言う時間に神経質になる事も無いだろう。しかし、逆に言えばはっきりと時間は限られている。本人は意識しなくともそこに生まれるのは絶対に1時間以内に完食しないといけないと言う『責任』である。この場合、いかなる理由があっても絶対に1時間以内に完食して持ち場に戻らなければならない。実際人と言うのは縛られているのが分かる。

 では逆に、これからさあやろうとしている『自由』と言う行動をある誰かに命令されたものだとしたらそれは『自由』と言えるだろうか。これから自分が12時13分に学食に行ってそこで24分37秒間(未来的に決まったものとして、そして、自分的には意識せずにこの時間が経つものとする)友人達と会話で楽しみながら食事を楽しみ、そして5分かけて目的の教室へ行くとする。この場合、最終的に到着する時間は12時42分37秒となる。だが、これをある誰かに「これから君は学食に友人と一緒に行ってそこで24分37秒間食べたり笑ったりしなさい。そして5分かけてこれから行くべき教室に行きなさい。」と言われたらどうだろうか。確かにこれから24分37秒学食で楽しんで5分歩いて講義へと向かう。もうこれはちゃんと本人の中で決まっている『自由』であるし、本人は意識しなくてもこの学食で食べると言う行動から講義を受ける為の教室へ移動するまで29分37秒かかっている事も未来的には判明している。しかし、これを逆に誰かに命令されたとして、それは果たして『自由』とは言えるのだろうか。いくら自分がこれからやる事とは言え、誰かの命令が入った時点でもうそれは『自由』とは呼べず、逆に『義務』へと変化するだろう。この場合になると、何がなんでもその時間内に目的を果たさなければいけなくなる。それに、命令されたのだからそれ以外の事は出来なくなる。例えば芯が無くなりかけてるからと言って売店に行く事も、トイレに行く事も禁止となる。自分の行動が未来ではどのように決まっていようが、それを束縛、或いは変化させるような行いを外部の力によって行われた場合はもうそれは『自由』とは言えなくなる。

 人と言うのは確かにある程度は人に迷惑さえかけなければ何をしてもいい『権利』は持っているのかもしれない。そもそもなんで人は他人に縛られる必要があるのだろうか。確かに他人に直接的(一部間接的も在り得るが)に人を傷つけたり等の迷惑をかけるのは当然悪い事ではある。しかし、普通に考えて人に迷惑は一切かかっていないのにも関わらず、その行為を悪として見て、そして指摘されるケースも存在する。例えば学校に通っている生徒は勉強もせず、遊び歩いてばかりいれば大抵の親はその生徒を叱る、或いは何かしら言ったりするだろう。確かに高校以降なら基本的に授業料がかかるから、金がかかっているのだからちゃんとそれなりに勉強してくれって言う気持ちになるのは分からなくは無い。しかし、中学校以前の場合でも言われるケースは非常に多いはずである。しかし、よく考えてみれば怒る、或いは言う側である(主に)親にとって勉強しない事に対して何か損する部分でもあるのだろうか。授業料だって(基本的に)かかる事は無いし、別に本人が勉強しないからと言って親が困る事等無いのだ。勉強をしない事による『責任』は自分で負うのだから。では、何故親と言うのは子供に勉強も含めた様々な事で色々と言ってくるのだろうか。確かに親とは子供を育てる『義務』、『権利』、『責任』全てがあるが、何故このような事をする必要があるのだろうか。子供を放置して殺してしまえば警察に捕まるから?子供を有能に育てあげる事で将来自分(親)の世話をしてもらう為?それとも世話しないと周りの人に怒られるから?実際考えてみれば別に親だからと言って育てる『義務』と言うものは本当にあるのだろうか。確かに今この世界は法律で縛られているのだからそれに従って面倒を見てる親(即ち、しょうがなく行っている)だっているだろう。法律さえ無ければ別に親が子供の世話をした所で実質的にそれは利益となるのだろうか。ただ余計に食費等の生活費もかかるし、それに何か躾をする際に自分にとってストレスとなって返ってくる。はっきり言って気分が良いものとは言い難い。それに立派な大人に育て上げたとしても自分の為に恩返しをしてくれるとも限らない。とは言え、親に無駄な世話をかけてきたから我々はここに存在するのだが。だが、この育てる行為もまた、『権利』なのかもしれない。

当たり前ではあるが、子供を産むのは何故か?理由はどうであれ、子供を持ちたいと言う願望から来るのだろう。また当たり前の話だが、子供と言うのは勝手に女性の腹部から出てくるものでは無いし、好きで産むにしても産む際の苦痛がどれだけのものかは十分に理解しているのだから産むと言う行為自体が自分に対する『責任』となるだろう。まずは自分の『権利』で子供を作る事を決め、そして産んだ後はその子供を一人前になるまで育て上げる『義務』と『責任』が生じる。また、この育てる行為は、実は単なる自己満足等では無く、最終的には全人類への変化を齎す(もたらす)ものになるのかもしれない。子供が最終的に大人になり、やがて親元を離れていくが、この後ついた職場でひょっとしたら地球全体を(良い、悪い含めて)変える行為をしてしまうかもしれない。これはあくまでも大胆な例ではあるが、これ以外にも一人一人の行動が地球全体に響くと言う事は沢山考えられる。例えばある放火魔によっていくつもの家が焼かれて失った、こうなれば被害者は当然のように余計な金がかかり、多大な負担を背負う事になるが、これらの復旧に使われる材料、即ち、資源に対しても重大な被害となるだろう。資源とは当然のように我らにとって生活には欠かせない存在であり、それが浪費されると言う事は非常に僅かながら間接的に我々、その放火の行為に無関係な人物達も将来的に危害を受ける事になってしまう。しかし今の我々の世代で資源が完全に無くなってしまうと言う事は無いはずなので広い意味では我々にとっては結局は無害なのかもしれないが、新たに生まれる者達にとっては非常に迷惑な話となる。このように人一人の行動が資源に対して打撃を与えているのが分かる。単純な話で言うと人は呼吸をして生きているが、呼吸をする度に人間の体内から二酸化炭素が放出されてそれが(とは言っても凄まじいほどの微量ではあるが)温暖化へと繋がっているし、地面を歩く事によって(これも凄まじく微量ではあるが)地面が傷み、脆くなっていくし、何かを食べる、飲むと言う行為をすればその度にそれらになってしまった動物や植物、或いは他の何かが犠牲になっている。つまり、我々はただこの大地の上で毎日生きる為に過ごしているだけで常に何かを犠牲にしたり、傷めてしまっている。ただ最低限の事をしていても同じ事であるのに、さらにこれを『自由』と結び付けるとどうなるだろうか。いくら本人にとっては回り、強いて言えば他人には一切迷惑な行為をせず、自分以外の者達に大した影響を与えていないと思っていても、地球全体を見れば結局何かを犠牲にしながら快楽を得ているに過ぎない。

さて、こう考えると『自由』とは本当の意味では『自由』では無いのかもしれない。確かに自分の好きな事を他人の迷惑にならないようにやる事は決して悪い事では無いのかもしれない。しかし、我々の行動によって必ず何かが破壊されているのがここで証明されたのだからそこには『責任』も生まれてくるだろう。どう言う『責任』なのか、答えは簡単、何かを犠牲する事に対する『責任』である。自分が快楽を得られる『自由』な行動、少なくともそれは最低限の行動量を遥かに上回るものなのだからその『責任』は尚更重要になってくる。本来我々が思っていた『自由』が誰にも障害を与えずにする事であるのに対し、本当の意味では何かを失わせる事によって得られる犠牲的な行為である。当然ではあるが、我々は生きている限り、犠牲を100%無くすのは絶対に不可能である。しかし、それを減らす事は十分可能である。しかし、それを意識し過ぎれば当然のように人は『自由』と言う感覚を失い、やがては生活上の『自由』を失ってしまうだろう。しかし、我々は『自由』を求めている。では、犠牲を減らして且つ、誰にも束縛されない事をするのはどうだろうか。両方を意識しても結局それは『責任』を伴ってしまっているので結局『自由』とは言い難い。ここで分かるのはわざわざ自分が好きな事をする為に周りなんてそこまで過剰的に意識するのは少し度が過ぎているのでは無いかと言う事である。確かに何かを傷つけるのはいけない事であり、そして我らの住処である地球を破壊しないように生きる『義務』があるが、そこまで周りを気にし過ぎていてはとても生活、いや、生きる事自体出来なくなる。言い方は非常に悪いが、やはり生活上何かを犠牲にしてしまうのは仕方が無い事なのである。結果としてその犠牲の分はどこかの誰かが補う『責任』を負ってしまう。これが所謂仕事と言うものでは無いのだろうか。

 このように、『自由』とは言われていても広い目で見れば確実に時間は限られており、何かをすればその分だけ何かが消失されていく。しかし、前述した通り、そんな途方も無い世界を眺めていたらとても生活する余裕等出来はしない。こう言う意味では我々には本当の意味で『自由』は存在しないのかもしれない。そして、ただ回りが何も言わないでいてくれているのかもしれない。

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