――最悪な一撃がミレイの左頬に直撃……――
「!゛!゛」
一撃の反動で椅子ごと床へと倒れるも、ミレイは左頬を左手で押さえながら、片膝立ちの状態となる。父親は、テーブルの奥にいる少女に向かって、思いっきり右腕を伸ばし、きつい一撃を飛ばしたのだ。拳を力強く握り。
「何やってんのさ。早く立ちな」
母親は何を考えているのだろうか。一見すれば恐ろしい程に凄惨なこの光景の中で、呑気にそんな短い言葉を投げかける。だが、ミレイは動かない。
(なんで殴られんのよ……)
ミレイは頬を押さえたまま、軽く俯きながら心でこの理不尽な状況を憎んだ。これでも自分で殴られるような事を言ったのだから、ある意味ではミレイにも責任があると言えるが。
「お母さんも立てって言ってんだから早く立ちな。あんたが全部悪いんだから」
ジュリーも
「悪いけど……殴られたってあたし、辞めないから……」
未だ片膝で立っているミレイは、相手が何をしてこようが、決して自分の道を反らさないと、捨てるように、言うが、それで相手は納得してくれるはずも無く……
――いつの間にか、父親はすぐミレイの傍らに来ており……――
――そして……――
――父親の右足、
――ガンっ!!――
「痛っ!」
ミレイは気付かなかったのだろう。既に近くまで来ていたと言う事に。突然踏みつけられるように喰らわせられた頭部への一撃は、ミレイに悲鳴をあげさせる。
「甘ったれんじゃねぇこの馬鹿が!!」
ミレイが両手で頭を押さえる隙も与えないかのように、父親の右足が再び発動し、屈みこんでいるミレイの腹部を狙う。
正確に狙った訳では無いのだろうが、爪先がミレイのジャケットの間から映る黒い肌着越しにやや薄い腹へ深く食い込み、ミレイに詰まったような喘ぎ声を出させる。
「ぐぅ!」
一度倒れかけるも、転がるようにすぐに立ち上がる。だが、息が詰まるような痛みからか、真っ直ぐは立ってられず、左腕で腹部を覆うように押さえ、やや前屈みのような状態になりながら力強く浮かび上がっている皺で覆われた顔をした父親を睨みながら口を苦しそうに開く。
「ちょっと……何すん……」
ミレイのその態度に腹を立てたのか、それとも初めから考えていた事なのか、父親は相当体に負担を背負ったであろうミレイのその父親から見て憎らしいであろうその顔に向かって、力強く握った右の拳を、突き上げるように飛ばす。
「きゃ!」
顔の下から走った鈍痛は、居間に入ってここで初めて、ミレイにとっての一番の音量を発させたのだ。ミレイは恨めしく殴ってきた男を睨むが、もう手遅れに近い状態だ。腹部の痛みも徐々に引いてきたのだろうか、顎付近に走る痛みを堪えながら、再び睨みながら口を開く。
「何よ……殴って解決なんてもう古い……」
「甘えんなこの馬鹿が!!」
殴られた事によって怒りを覚えたのだろうか、反抗でもしようと、力による解決を止めさせようとするが、言葉だけではどうしようも無かった。
今度はほぼ真っ直ぐに、右拳がミレイの左の頬を再び狙う。怒鳴り声と共に放たれたその一撃はミレイを平然と黙らせる。
「!!」
ミレイは悲鳴すらあげる余裕も与えられない程に追いつめられる事となる。
――その最初の真っ直ぐな一撃から、連鎖するかのように、次は左の拳も動き出し、そして、右も再び動く……――
「お前は昔からこうだ!! 自分の事ばっか考えるし!! 人の話も聞かんし!!」
いつの間にかミレイは壁際にまで追い詰められ、それでも父親は止まる事は無かった。
ミレイは出来るだけ顔面だけは守ろうと両腕を揃えて顔の前に構え、その細い腕で顔へ飛んでくる拳は大体防いでいる。それでも、逃げ場の無い状況であるのには変わりない。
「良かった。家具寄せといて」
「悪いの全部あいつだし、別にほっといてもいいかぁ」
母親とジュリーは、自分の娘及び妹が父親から折檻を受けていると言うのに、見物客であるかのように、テーブルに肘をつきながら眺めている。壁際に設置してあった家具は既に別の場所に移し替えており、今起きている事態には備えられるようにしてあったようだ。だが、いくら何でも今の状況は酷過ぎるだろう。
「ちょ……! やめ……!」
ミレイは殴られ続けながらも、悲痛な声で暴力を止めようとするが、聞いてくれるはずが無い。
「うるせぇ!! 全部お前が悪いんだ!!」
納まる所か、逆に両腕には力が込められていくようにも見える。ミレイの両腕には痺れる痛みがどんどん蓄積されていく。どうしてもミレイのハンター業が気に入らないのだろうか、最早深い理論等も考えずに怒鳴り散らしながら、その両腕を止めない。
「いや……! もう……やめて……!」
最初の内は殴られても尚、弱みを見せないようにと、強気で振舞い、睨みつけながら抵抗していたが、やはり純粋な痛みには逆らえないのだろうか、そしてやろうと思えばやりかえせるのか、それとも本当にやりかえせないのか、遂にはまるで誰かに助けでも求めているかのような、弱気になった声で、暴力を止めてもらう事を願う。
父親の拳の何発かはミレイの両腕の横を上手く通り、直接ミレイの顔を狙う。
「黙れ!! お前のせいでこっちは困ってんだぞ!!」
父親は止まらなかった。それよりも、父親は暴力を全く止めず、先ほどまでは全く使っていなかった足を動かしたのである。
――右膝が、ミレイの
盾の役目を果たしていた両腕が下がり、両腕の盾で防がれていたはずの顔が
腹部の苦しさによって上手くバランスを保つのが難しかったのだろうか、それとも殴られ続けていた事によって体力を酷く消耗していたのだろうか、左の
だが、流石にずっと横になっていても、何も始まらない。ゆっくりと顔を押さえながら体を起こし、息を荒げながら、じっと床を見つめる。
「いい加減観念したらどうだ。お前みたいな奴がハンターなんてやってられるはず無いだろ。ろくに話したりも出来ないような奴が偉そうに振る舞うな。家族に迷惑かけるなんてどう言う事だ」
父親は堂々と立ったまま、先ほどまで暴れさせていた両腕から力を抜きながら、下を向いて肩で呼吸をしている自分の愚かな娘に向かって、その、他者と関わる能力に劣っているであろうミレイから再びハンター業を奪うような事を言い放つ。まだミレイは生まれて間もない少女だ。いつ死ぬか分からず、そして着実な収入も期待出来ないハンター業はこの街の養育費の返済を考えれば非常に無軌道である。
だが、それでミレイが賛成してくれるかどうかである。例え肉体的な暴力を加えられたとしても。
「……いやよ……。あたしは辞めないから……」
肩で大きく呼吸をして下を向いたまま、ミレイは父親の意見を否定する。ミレイの視線に映るのは、木造の床であり、それを聞いた父親がどんな人相を浮かべ始めたのかは窺い知る事は出来ない。
「どうせこいつ、聞く気無いんでしょ?」
顔に多くの擦り傷をつけているミレイに全く同情せずに、ジュリーは再び暴力を発動させてしまいかねないような発言を平然と飛ばす。未だに見物客のような呑気な表情を変えたりはしない。
そして、姉は再び冷たく、酷い言葉を飛ばしたのである。
「ん? 今うるせぇとか言わなかった?」
ミレイはそんな事を言った訳では無いし、それに今はただ呼吸をするだけで精一杯である。まだ腹部に走る鈍痛は抜けていないのだから。
――だが、ジュリーの台詞から一瞬だけ冷や汗が流れたのを感じるミレイ……――
「そんな事言って……」
言ってないと、疲れた喉で言い切ろうとしたが、もう遅かった。
――何故なら……――
――父親の左足が……――
――力を抜いて呼吸をしている少女の腹部に勢いよく突き刺さり……――
「あ゛ぁ゛!!」
ミレイは目を大きく見開き、声にならない苦痛の声をあげる。呼吸する事だけを考えていた為に完全に力を抜いていた腹部に突然走った不意打ちのような一撃は、非常に深く腹部に浸透し、まともな悲鳴をあげさせる余裕すら与えなかった。
「まだお前はそんな態度か!!」
腹部を両腕で強く押さえているミレイに罵声を浴びせながら、今度は右足で
「!!」
もうミレイには叫ぶ気力も残っていないのだろうか。それとも腹部を突然蹴られ、内部の空気を全て根こそぎ奪われた為にあげたくてもあげられなかったのだろうか。頭に鈍痛が走り、そのまま再び倒される。
蹴られた頭部を押さえる暇も与えられず、父親は横に倒れた状態になったミレイのがらんどうとなった腹部に再び狙いをつける。もう自分の娘だと言う事も忘れたかのように。
「いい加減勝手な真似はやめろ!!」
そう怒鳴りながら、蹴りをミレイのやや細めな腹部に浴びせつける。
そして、その蹴る足を全く止めず、蹴りながら父親は怒鳴り声を上げ続けた。
「お前の姉も弟達もここで働くってんのに!! お前だけはなんでそんな勝手な事しやがんだ!!」
ミレイを除く子供達は、全員ここに残り、そして借金を返していくと言うのに、ミレイだけは、最後まで返済するその時まで生きていられるかどうかも分からないハンター業を未だ続けており、そして家族からの説伏にも全く応じない。
それに腹を立てて今この暴行を発動させたのだ。
「や……や……め……」
蹴られ続けているミレイの耳に父親の声が入っているかどうかは分からない。いや、一応父親も怒鳴っているのだから、聞こえてはいるだろう。だが、それを聞いてミレイの中で整理出来ているかどうかである。
激痛を何とか堪えながらも、暴力をやめてもらいたいと言う気持ちが籠ったような、非常に短い呻き声を何とか発するが、その様子を見る限り、とても父親の言い分を理解しているとは思えない。
「早く謝れば? じゃないと一生続くよ」
姉は呑気にミレイに求めるが、今のミレイには謝るだけの気力は残されていない。蹴られ続けているのだから謝りきる前に蹴られ、声を発する為に必要となる空気を全て搾り出されてしまうのがオチだ。
「勝手に死んでこっちに借金擦り付ける気か!! もう意地でも引っ張り戻してやっからな!!」
喚き散らすように怒鳴りながら、父親の足は未だ少女の腹部を狙いつける。
――このままでは狩猟で事故死する前に、ここで殺されてしまうかもしれない……――
――いや、それは言い過ぎか……――
それを平然と見ている母親と姉も非常に恐ろしい。
「い……た……あ……び……」
腹部を狙われ続け、まともに声すら発せず、一体少女の頭ではどんな思考が巡らされているのか、その声だけを聞いても外部からは分からないであろう。
恐らくは『痛い』とでも言っているのだろうが、その後の言葉は一体何だろうか。
両目を強く瞑る。その目の前に映る暗闇の中に、とある人物が浮かび上がった。
――一応年下ではあるが、敬語や礼儀はまず無く、それでも一緒に楽しくやってきたあの少年……――
「あ……び……」
早くこの地獄の時が通り過ぎてしまって欲しいと、心で願いながら、ミレイは再び意味有り気な妙な言葉を発する。激痛によって既に抵抗する力は奪われてしまっているように見える。
――そして、ようやく、ミレイが願っていた少年が現れ……――
「ちょ、ちょっと!! 何やってんですか!?」
突然居間のドアが乱暴に開かれ、そこから紫色の髪をした少年が現れたのだ。叫びながら、現れたのだから、父親は蹴る足を止めて軽く睨みつけるように力強さを残した細い目を向け、そして平然と眺めている母親と姉は顔だけを向けてその少年を見る。
「ってうわぁ! ミレイ、お前!」
アビスは一応居間の外にいたのだが、怒鳴り声と何かを蹴るような鈍い音に
そしてすぐ目の前に映ったのは、アビス側に頭を向けて倒れている少女。勿論アビスはそれを放置する訳が無く、すぐ目の前に立っている男の前に立ちはだかるように少女に近づき、そして倒れている体を上体だけ起こし、自分の胸へと無意識に押し付ける。
抱かれた方のミレイは、助けてくれたであろうアビスに安堵の気持ちを覚え、僅かではあるが、腹部にしつこく走っていた激痛が和らいだような感じを覚える。
アビスはその状態でしゃがみながら後ろを向くような体勢で、男の事を見る。
「おい、なんだお前」
男はきっと父親である。その父親は突然現れた少年、アビスに対し、先ほどミレイに浴びせていた罵声の音量を一気に引き落とし、やや威圧的な雰囲気で訊ねる。
「あ、えっと、アビスです。ちょっとこいつについて来たんです」
アビスはミレイを両腕で包んだままで、上から見下ろしている父親に向かって軽い自己紹介をする。
「アビスか……。まあいい、今は話中だ。早くそこどけろ」
他人相手でも殆ど態度を変えず、まだ話が終わっていない事を伝えると、父親はアビスに向かって左人差し指をドアに向かって払いのけるように動かし、退室を命じる。
「
アビスは父親の言い分を否定し、そして声を荒げ、ミレイを抱きしめる腕の力を一層強くしながら、父親の体罰に恨みを覚える。ミレイの背中に当てている左手からはじっとりとした汗の感触が伝わる。ジャケット越しに来ていたものだが、それは相当な量だろう。ジャケットの薄さもやや関係しているのかもしれないが。
「言っても聞かんからだ。こっちが何回言っても聞かんから、こうやって殴ってでも分からせなきゃならんのだ。自業自得だ」
父親は平然と、自分の行為を振り返らず、聞かない方だけが悪いと、自分の行為を否定しない。
「でもいくら何でも酷いじゃないですか! もう死にそうだったじゃないですか!」
アビスはミレイの背中を撫でながら、居間へ戻った時のミレイの姿を思い出した。壁際に追い詰められて倒れているミレイの姿を。それを平然と蹴り続ける父親の姿もしっかりと目に入れていた。あれはアビスにとっては黙って見ていられるものでは無い。
「何言ってるお前。そんな事でこいつは死にはしない。ハンターやってんだろ? どうせ体も頑丈に出来てるに決まってる。それともただの肩書だけか?」
父親としては、ハンター業は常に力を使う仕事なのだから、それに伴って体も非常に丈夫であると半ば頭の中だけで勝手に決めつけ、だからこそ多少蹴った所で命までは奪えないだろうと、人間の体を無視したような想像を主張しながら、眉に皺を寄せる。
「そう言う問題じゃないですよ! ここまで殴ったり蹴ったりなんて可笑しいですよ! もう……こんな血まで出して……」
アビスにとってはハンターだからどうだとか、そんな話はどうでもいい。無抵抗で、尚且つ基本的に弱い存在と認識されているであろう女、更に厳密に言えば女の子相手に暴力を加え続けられている姿を見れば、絶対に止めたくなる。
そして、ミレイの左の頬にそっと右手を当ててみると、そこに付着したのは、ミレイの擦り傷の過程で現れたであろう血液であった。それを見てアビスは自分の右掌を見ながら呟くようにミレイに同情する。
恐らくミレイの顔をアビスの胸に押し当てている時点でミレイの血がアビスの服に付着してしまっているであろう。だが、アビスはミレイを突き放そうとはしなかった。
ただ、アビスは気付いてないが、血液とはもっと別の無色の液体も僅かに付着し始めている。
「アビス君、いいよ別に。こっちも今のそいつとおんなじだけ大変な思いしてきたんだから。ってかそんな奴庇わなくたっていいよ、変人なんだから」
テーブルで平然としているジュリーはアビスをミレイから言葉だけで引き離してやろうと、ジュリー達側も今殴られ、蹴られ続けたミレイと同じだけの苦痛、勿論それは肉体的では無く、精神的である可能性が極めて高いが、それを味わってきたと伝える。やはり性格に異常がある人間はこれだけの体罰はしょうがないのだろう。
だが、アビスは違う。
「いや、こいつ変人なんかじゃないですよ! 至って普通ですよ!」
そろそろ言わなければいけないと察知したのだろうか、アビスは酷評ばかり浴びせられるミレイを庇おうと、一般的な人間であると、言い方はやや平凡であるが、必死さが伝わるような声で間近にいる父親及び、テーブルにいる姉に向かって言った。
「ふん、どこが普通だ。こんな奴どこ探しても同じの見つかるかどうかって言うような奴だぞ」