1792年、ラクスマンが根室に来航。
いない国のラクスマン。
大黒屋光太夫ら漂流民を引き渡した。
1804年、レザノフが長崎に来航。
いや、ヨだと言ったレザノフ。
津太夫らの漂流民を引き渡すと共に
通商を求めたが、幕府に断られた。
1808年、フェートン号事件(イギリス船)が
発生。
オランダ船を追って長崎に不法侵入する
事件だった。
1837年、モリソン号事件(アメリカ船)が
発生。
最上徳内近藤重蔵らは千島を
調査・探検した。
1775年、間宮林蔵らは樺太を調査・探検した。
1825年、異国船打払令が行われた。
幕府は必要な薪水や食料等をあたえて
退去させる方針を取っていたが、
1824年にイギリス捕鯨船の暴行事件が起こると、上の令を出してしまった。
そして、1837年、モリソン号事件が発生した。
林子平海国兵談でロシアの南下に
警告を発したが、1792年にいたずらに
人心を惑わしたとして処罰された。
1839年に幕府の対外政策を批判したとして、
蛮社の獄が起きた。
この事件で弾圧されたのが高野長英
彼は戊戌夢物語を表していた。
上と同じく弾圧された渡辺崋山
慎機論を表していた。
上下の秩序を重視する朱子学
保護・奨励。
京都の石田梅岩は町人の生活倫理を
優しく解いた心学を各地に広めた。
諸藩では藩校(藩学)を新設・拡充して
人材の育成に努め、庶民教育の為に
郷学も作った。
民間では読み、書き、そろばん等を
教える寺子屋が普及した。
18世紀以降、学問の世界に
国学蘭学が新風を吹き込んだ。
日本の古典を文献学的に研究する
流れは、やがて古代精神(古道)の
復活を唱える国学に発展した。
賀茂真淵らは儒教や仏教等の
外来思想が流入する以前の古代人の
生活や思想への復古を主張した。
本居宣長は『古事記伝』等で古典研究の
実証主義的方法と復古思想の古道説を
大成した。
幕末近くに出た平田篤胤は古道説を
宗教的にとらえ直して復古神道を唱えた。
篤胤
鎖国下で西洋の学問や事情を知る機会は
乏しかったが、新井白石の活動や
8代将軍徳川吉宗の実学重視の
殖産興業政策から蘭学への関心が
高まった。
18世紀後半に前野良沢杉田玄白らが
オランダ語の解剖書を苦心の末に翻訳した
解体新書の成果によって蘭学は興隆した。
19世紀になると、オランダ商館医の
シーボルトが長崎郊外に診療所兼学塾の
鳴滝塾を設け、大阪では緒方洪庵が適塾を
開いて多くの人材を世に出した。
19世紀に入ると、封建社会の矛盾を
どのように打開するかと言う議論が登場した。
海保青は藩営専売による財政再建論を。
本多利明は貿易振興による富国説を説き、
佐藤信淵は絶対主義的な統一国家の
形成と海外進出論を主張した。
安藤昌益は万人が平等に耕作して
生活する世界を理想して身分制の
社会を否定した。
18世紀半ばの竹内式部山形大弐
覇者である幕府を排斥する尊王斥覇の
思想を説いた為に処罰されたが、
水戸学等の尊王論は幕藩体制を維持・強化
する立場に立っていた。
石門心学の考えを受け入れて家業に
精励しようとしたり、
自発的な更正事業の組合作りを目指した
二宮尊徳のような実践的農政家も出現。
賄賂が公然と行われるような風潮も生まれ、
そこに天明の大飢饉が起こった。
浅間山の大噴火とも関係あり。
各地では百姓一揆や打ちこわしが続発。
自然災害賄賂政治
18世紀に入ると百姓一揆の数が増加。
年貢減免の要求をかかげ、
名主・本百姓層を中心として村内の
全農民が参加する惣百姓一揆
藩内の全農民が立ち上がる全藩一揆
多く見られるようになった。
松平定信は社会不安を静めて幕藩体制を
安定させる為に寛政の改革を進めた。
幕府の家臣(旗木御家人)の借金帳消しの
棄捐令が行われた。
囲米とは大名に対し、米を蓄えておく事。
節約分の7割を積み立てる事を
七分積金と言う。
朱子学以外の学問を禁止する事を
異学の禁と言う。
定信の辞職後は将軍家斉が19世紀前半の
約半世紀に渡って政治の実権を握った。
この時代を大御所時代と言う。
職業技術を身につけさせる事を
人足寄場と言う。
19世紀半ばに天保の大飢饉が起こった。
社会が凶作・飢饉に陥った為。
困窮は著しく、百姓一揆や打ちこわしが
続発したが、大御所政治下の幕府は、
適当な救済策が取れなかった。
所謂インフレーション。
社会混乱を関東取締出役により抑える。
そして、打ちこわし(都市)や
一揆(農民)が起こった。
大塩の乱は1837年、大塩平八郎によって
起こされた反乱。幕府は大きな衝撃を受けた。
天保の改革は1841年に水野忠邦によって
起こされた。
12代将軍、徳川家慶の時。
上の事柄の後、株仲間を解散
打払令の緩和を天保薪水給与令と言う。
出身地に帰す農民の維持を
人返し法と言う。
大阪・江戸周辺を幕府の土地にする事を
上知令と言う。
薩摩藩では調所広郷を下士層から
登用して多額の借金を殆ど帳消しにして
砂糖の専売強化や琉球貿易で
財政再建に成功した。
そして、洋式軍備を整えた。
  • 三都商人からの借金を踏み潰す。
  • 黒砂糖の専売
  • 反射炉を建設
長州藩では村田清風が改革を担当。
藩士の負債の整理や専売制の改革、
藩営の金融業・倉庫業等によって
財政の立て直しに成功。
  • 紙、蝋の専売
  • 越荷方による商品の中継
列強諸国の産業革命は植民地政策の
為である。
アヘン戦争は1840年に起こり、
水野忠邦薪水給与令を出した。
アメリカのペリーは1853年に
浦賀に来航した。
国書を提出する為に。
老中阿部正弘はやむなく親書を
受け取り、翌年春の回答を約束した。
ロシア使節プチャーチンも国境の画定や
通商を求める国書を提出した。
ペリーは1854年1月に再び来航し、
幕府は日米和親条約神奈川条約)を
結んだ。12ヶ条である。
軍艦7隻を率いて再来したペリーの
軍事力に威圧されて結んだと言う。
  • 下田・函館の開港
  • 薪水・食料・石炭などの供給
  • 漂流民の救助
  • 片務的最恵国待遇の供与
  • 下田への領事駐在
1856年に下田に着任した
アメリカ総領事ハリスはイギリス・フランスの
中国侵略を口実に、老中堀田正睦らに
通商条約の早期締結を求めた。
1858年4月、大老となった井伊直弼
同年6月19日に朝廷の許可を待たずに
日米修好通商条約を結んでしまった。
こちらは14ヶ条。
これは不平等の内容は
自由貿易
領事裁判権
協定関税
(関税自主権が無い
上の後にオランダ・ロシア・イギリス・フランス
との間にも同様の修好通商条約が
結ばれた。これを安政の五か国条約と言う。
  • 最大貿港 横浜
  • 最大相手国 イギリス
  • 輸出品 生糸 茶
  • 輸出品 毛織物 綿織物
品不足を解消する為に1860年に
五品江戸廻送令を出して、
雑穀・水油・蝋・呉服・生糸等の
生活用品の江戸輸送を命じたが、
効果は薄かった。
13代将軍家定の継嗣を巡って
幕政上の対立が激化していた。
1858年に井伊直弼は紀伊藩主
徳川慶福を家定の継嗣と定め、
対立する反対派の人々を
大量に処罰した。
これを安政の大獄と言う。
逆に1860年に桜田門外で
尊王攘夷派の水戸の浪士達に
暗殺される事件を桜田門外の変と言う。
幕府の権威が次第に失墜する中で、
老中安藤信正孝明天皇の妹和宮
14代将軍家茂の妻に迎えた
薩摩藩主の父である島津久光
この機を捕らえて上洛し、
攘夷派を弾圧すると共に勅使を伴って
江戸に下り、幕政の大幅な改革を
実現した。
この幕政改革を文久の改革と言う。
久光一行はその帰路、武蔵国生麦村
(横浜市鶴見区)で行列を乱した
イギリス人3名を藩士が無礼打ちする事件
が発生した。これを生麦事件と言う。
これがきっかけで英戦争が始まった。
長州藩ではこの頃木戸孝允高杉晋作等、
吉田松の影響を受けた尊王攘夷派に
藩の実権が移っており、彼らは
朝廷をも動かして幕府に攘夷を迫った。
8月18日、武力を持って長州藩や
その一派の三条実美らの公家を
京都から一掃した。
これを八月十八日の政変と言う。
攘夷派は、長州藩士を中心に
翌64年7月に上洛し、会津・薩摩等の
藩兵と御所付近(蛤御門)で戦ったが
敗れた。
これを禁門の変という。
巻き返しをはかる長州藩が京都に
兵を進めたが、薩摩、海津藩兵に
御所付近で敗れた事件とも言える。
上の事件により、長州藩は朝敵とされ、
幕府は同年8月に長州征討の出兵を
全国に命じた。
これは第一次長州征討
1865年1月の奇兵隊の拳兵により、
木戸孝允高杉晋作らが再び
実権を握り、薩摩藩でも西郷隆
大久保利通らの手動で
討幕派の力が強まった。
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