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情報倫理最終課題
『情報化社会に於ける倫理のあるべき姿』

前期必修科目、『情報倫理』の最終課題を
私はこのようにレポートして結果として
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情報倫理

レポートタイトル

〜情報化社会における倫理のあるべき姿〜

学籍番号   0712010

学科  システム情報学科

氏名        ZZ

序章

現在、急速な情報技術の進歩によって人類は様々な世界との交流を交わしており、それに伴い経済や商業等の生産面で著しい発展を遂げている。そして人類は表向きだけを見れば非常に快適ですぐに欲しい物を手に入れる事が出来る便利なシステムとして目を付けているであろう。しかし、人は裏と言う物を殆ど知っておらず、そこで一体どのようなものが存在するのかを把握しておらず、知らず知らずに世間的な『悪』を行っている場合だって決して少なくは無いはずである。

『善』と『悪』の判断を決めるのは何か

インターネットを使っている者なら必ず一度は見ているであろう、掲示板に置ける誹謗中傷、所謂『荒し』である。これを見れば普通の者なら反射的に「悪い事だな。」と捉える。では、それはどうしてなのか。大抵、多数の人間達が折角特定の話題で楽しんでいるのにそれを妨げているからそう思うのだろう。しかし、更にその奥を考える者は多分あまりいないかもしれない。では、何故そのような『荒し』が始まる、或いはやってくるのだろうか。色々とその現場は見てきたが、荒れた掲示板の作られ方は大抵下記のような感じである。

1.最初は普通に話題で盛り上がっている。

2.そこに『荒し魔』が登場。

3.話題とは無関係な書き込みによって周囲を不愉快にさせる。

4.不愉快になった者は反撃手段として暴言を書き込む。

5.結果として言い争いが始まり、掲示板は崩壊。

6.最終的に話題目的の者達が消えて行く。

確かに人気のある掲示板ならばどんな者かは様々だが、沢山の人間がやってきて様々な書き込みをしてくる。そして、前述したように『荒し』のような者が書き込みする事によって掲示板が崩壊する事も有り得る。通常、掲示板と言うのは必ず管理人が存在するのだから荒れる原因と言うのは管理人がきちんと掲示板を監視していないからでは無いのだろうか。だとしたら、悪いのは『荒し』では無く、管理人なのか?これだと変になる。強いて言えば掲示板の存在自体が悪いのかもしれない。第一『荒し』と言うのは掲示板が存在するからこそそこで『荒し』の行為をすればそれだけ遣り甲斐があると思い込んで好き放題キーボードを叩くのだから掲示板そのものが無くなってしまえばもう『荒し』による荒しワードは残せないのだから結果として閲覧者もそれを見なくて済むのだから不愉快に至る事は無いはずである。しかし、こんな風に『無ければ』的な考えばかり持っていてはこの世の全てが無くなる事になる。

また、インターネットとは宇宙空間のように途方も無い広さを誇るエリアなのだからそこに『ろくでなし』ぐらいしか行かないようなサイトだって多数存在する。普通の研究目的で行くサイトや、ある株式会社の公式ホームページとかなら一般的なサイトではあるだろう。しかし、年齢制限が加えられている所謂『エロサイト』とか、Flashを使った所謂誰かを笑わせる為のサイト、そして更には閲覧者を不愉快にさせたり驚かせたりさせる『グロ画像・動画』を置いたサイト等は普通の人ならまず立ち寄らないだろう。何故なら実質的にそこに行ってもただ満たされるのは自分の趣味的欲求で学習等とは大抵無縁であるからである。理由はさておき、では、結局の所何故そのような普通では無いサイトがインターネット上に存在しているのだろうか。だが、実際は『有る』、『無い』とかそう言う差別的な面で見る必要性は無いのかもしれない。わざわざ普通なサイトだけがインターネット上にあればいいと言う考えを持つ事自体おかしいのでは無いのだろうか。確かに変なサイトは変かもしれないが、結局その価値観を見るのは閲覧者本人であって、勝手に周りが決める事では無いのかもしれない。実際その『ろくでなし』サイトに行ったとしてもその閲覧者がその影響を他人に与えたりさえしなければ表面上はそれでいいのでは無いだろうか。インターネットでは基本的に自分自身がその内容の価値を認めているからこそそのリンクをクリックして中身を見ているのだから結局それは自己責任となるだろう。但し、だからと言ってその見てもらう側のサイトがその『自己責任』を利用して閲覧者を騙す事は別の問題となる。これについては後述する。結局人間が『普通』のサイトと『ろくでなし』のサイトと分ける理由としては単純に言えば『普通』のサイトと比べる別のものがあるからこそ、その『普通』のサイトがより『普通』だと強く意識するし、逆に『ろくでなし』のサイトは『普通』のサイトがあるからこそ比べ合って『ろくでなし』と強く意識する。比べるものが無ければこうやって差別的意見は生まれないし、複数に分ける事を考える必要だって無くなる。しかし、『普通』以下の存在だからそれを抹消するのは間違いである。それは人をピンチに陥れるサイトか、それともただ単に気持ちで「変なサイトだ」と思われるだけのサイトかによって大きく異なっていく。

仮想世界で麻痺していく人間性

便利なものであるインターネットでもその使い方を誤る、或いは人為的に人を狙うような事をすればそれはとんでもない凶器へと生まれ変わる。人はどう言う訳か、現実世界ではまずやらないような事をこのネット上、つまり、仮想世界では試みようとする。掲示板に対して誹謗中傷を書き込むのならただ気分的に不愉快になるだけで終わるかもしれないが、ネットの利用者の無知、或いは弱味を狙って金銭や個人情報を騙し取ろうとする行いだって平然と存在しているのだ。その一例として『ワンクリック詐欺』と言うものがあるが、このサイトの原理としては入り口をクリックしてしまうと画面上に個人情報を抜き取っている様子を映し出された画面が表示され、自動的に入会させられ、高額な入会金を請求されるものである。ここでネットに対する知識が無ければ大抵の人は、ましてやこのようなサイトと言うのは所謂『エロサイト』が殆どであり、まさかこんな変質的なサイトに行って高額請求された事を他人に言って助けてもらうのは容易な事では無く、サイト側も巧妙な手を使って早急に入金させようとしてくる。また、ある人ならうっかり連絡してしまい、個人情報を提供してしまう事も少なくない。結論としてはこのような悪質サイトは当然『悪』ではあるが、では、何故このような『悪質サイト』を含めた様々な問題が発生して人々を困らせてきているのにも関わらず、インターネットと言うものは姿を消す事が無いのだろうか。しかし、『掲示板』でもそうであるが、悪い者が現れるから消すと言う考えを持っていては、やはり何も生み出せなくなるのでは無いだろうか。悪い者が現れるからその悪い事に扱われる『何か』が『悪い物』の対象になるのはそれは非常に理不尽な事であろう。通常公の場に平然と置かれている物と言うのはその『物』そのものは扱ってくる人間の善悪の判断は出来ないし、ましてや、『悪』に利用されたとしてもその『物』自体は文句一つ言えないのだ。では、やっぱり公の場に平然と居座っているその『物』があるから悪い物として扱われる可能性が出てくるのだろうか。違う。正しい扱い方をせずに『悪い方』へ事を動かそうとする『利用者』である。このように『物の存在』に対して善悪の判断を下していると、しつこいようではあるが、全てが無くなっていくし、何も生み出されなくなるだろう。

例えば切れ味抜群、刃毀れもしない、おまけに軽量で手が疲れない牛刀があるとしよう。確かに切り易く、長く使える、そして長時間の調理にも使えるこれなら確実に売れる商品となるはずである。しかし、言い換えればそれは最悪の道具と変化する。切り易い=殺害も容易、長く使える=殺し放題、軽量で手が疲れない=疲労による妥協が無い・・・と言うように本来の使い方と外れた道を行くのにも非常に都合の良い理由にも出来てしまう、或いは強制的に悪い何かを生み出してしまうのである。しかし、これは絶対に防げない事であるに違いない。その『物』が持つ長所と言うのは必ず短所としても捉えられる事が極めて多いし、何か有益な事を振り撒く場合であってもその裏では副作用として必ずどこかで害が発生している。後者の場合の例としては新たな技術を生み出す工場が出来たとして、そこから公害が発生して環境を破壊する等である。つまり、今まで人類はこのように副作用によって世界が蝕まれていく事を知ってる上で新たな技術を生み出してきた事になる。事実、大きく環境は破壊されてはいるが。現実の世界であれば法的な問題になりそうな事は例えそれが僅かなものであってもよほどの自信家でない限り行う事は無いだろうが、仮想世界ではそのような事を平気でする割合が非常に高い。きっとそれは人間の心理的な問題であろう。現実世界では常に自分自身を曝け出しているのに対し、仮想世界では個人の識別をする事が極めて難しく、加害者の特定も、被害者に対する救済も事実完璧とは言えていないのだ。人間と言うのは仮想世界に置いては現実世界のようにハッキリと『人間』と相手をしている事に対する意識が薄れ、結果としてネット上に悪いものが浮いて現れている。結局得する者と損する者が出てくるのだが、それはインターネットと言う情報技術が悪い訳では無いのだ。情報技術はあくまでも『物』であり、それが意思を持って人を騙そうとしているのでは無く、それを巧妙に利用して人を騙す道具として扱う『人間』なのである。では、インターネットに人を騙す能力を秘めているなら結局インターネットそのものが悪いのでは?と思う場合もあるが、それも間違いである。インターネットは悪意とは全く無縁に作られた存在であるのだからそれを上手く『悪』に使おうとする人間が結局悪い。もしこれで能力を秘めたインターネットが悪いとしたら殺人に使われた包丁を作った工場が悪いと言うある意味理論的な答えが生まれるが、そうなれば非常にしつこいようだが、何も生産出来なくなる。作られた物の運命は使用者によって委ねられるのである。

どこからどこまで所有権があるのか

通常は代金さえ払えばその『物』は自分自身のものになる。こうなればもうそれは基本的にどう扱おうが自由であるように思われる。しかし、本や絵等の場合はあまり自由が利かない事が多い。例えば、自分で買った物だからと言って自分でその内容を誰かにばら撒く行為(これを所謂無断転載と言う)をした場合、確実に法的に処分される事になるだろう。では何故わざわざ自分で代金を出して手に入れたものなのに完全に所有権が自分のものになった後でも色々と縛られなければならないのだろうか。これでは買う意味が無いのではないのだろうか。逆にその買った物を本来の役割以外の方法で使ったとしても、例えば本なら読まずに枕にしたり、踏み台にしたり、人を叩く道具にしたりしても別に回りは何も言ってこない。しかし、その本の中身だけは全くの別物として扱われている。買った後は自由にしてもいいのでは無いだろうか。

買うと言う事はその情報を個人的に入手する事と同じ事になるだろう。代金を出したのはその『買った者』なのだからその情報を入手する権利はその本人に委ねられる。その買われる物が持っている本当の価値とは一体何なのだろうか。通常人間はその価値を欲するが為にわざわざ自分の代金を削ってそれを入手するのだ。だとしたらその『価値』と言うものが買った後に背負う『責任』と大きく関わる事になるかもしれない。人が本やCDを買うのは決して本そのものやCDそのものが欲しい訳では無い。あくまでも中身に収められているその『何か』が欲しいのだ。本が分厚いだの、CDの触り心地が良いだの、そんな事はどうでもいい。兎に角人間は『内容物』を欲しがっているのだ。つまり、『無断転載』と言うのは内容物、つまり『価値』を勝手に第3者に無料提供するのと同じ事になる。最早『価値』の正体さえ分かってしまえばもうそれは自身で代金に負担をかける必要は完全に無くなる。それはつまり、その『価値』を得る為に代金に負担をかける必要が一切無くなるのだ。結果としてその『価値』を提供している側は一気に収入を失いかねない。それは人の苦労を奪い取るに同じだ。我々人間は買った後はその『内容物』、つまり、『価値』を永続的に守る『義務』が生じてくるのだ。

結局の所代金を出した所で新たな『義務』を背負う事になってしまう。だとしたら結局消費者側はリスクを買っている事になるのでは無いだろうか。常に消費者はその『価値』を永続的に守らなければいけないのだから代金と言うのは危険を生み出す代物になると言う考え方も出来なくは無いかもしれない。しかし、『価値』を守ると言うのは決して難しい事では無いだろう。『価値』と言っても徐々に無くなる『消費型価値』と半永久的に残る『永続的価値』に分けられる。『消費型価値』と言うのは主に飲料水や消耗品に該当する。味や使用効果が生み出す『価値』と言うのは食べたり、使ったりすれば徐々に減少し、そして完全に消失した時、それが持っていた『価値』は消滅する。逆に『永続的価値』に該当する本の記述やCDの音楽等はいくら見ても聴いても存在が無くなる事は無く、劣化等と言った事情が無い限り、それは永久に『価値』として生き続ける。大切なのは永久に残る価値をどう扱うかである。『消費型価値』を完全に100%コピーするのはよほどの事が無い限りまず不可能ではあるが、『永続的価値』の場合、コピーは非常に容易であり、控えさえ残っていれば簡単にばら撒けるのだ。これほど『価値』を簡単に台無しに出来る行為は他に無いだろう。『永続的価値』をばら撒くと言ってもそれは無意識の内にやってしまうと言う事はまず無いだろうし、それに実行するとしてもかなりの労力を必須とするのだからこれについてはまず我々は心配はする必要は無いだろう。

総合的に迷惑とは一体どう言う事か

現実でも仮想でもとりあえず人に迷惑な行為さえしなければとりあえずはそれで良いと思う人が多い。だが、本当にそうなのだろうか。プライバシーと言う言葉があるが、これを侵害されれば当然これは反射的に迷惑、或いはそれ以上の感情が表れるだろう。本来プライバシー、個人情報とも呼ばれるが、通常他人のこれを受け取った者はいかなる理由があっても絶対に守り通す必要があるだろう・・・と言うはずなのだが、法律で定められているログの収集と言うのは明らかにプライバシーを覗いているようなものでは無いだろうか。ログを調べればインターネット利用者が何時何分にどのサイトを閲覧したかを把握出来るが、そうなると言う事は事実、閲覧者の内側を見る事になる。普通の人ならば自分が見たサイトを全て隅々までチェックされたらそれは恐ろしい事だと思うだろう。しかし、このような人の生活を覗き見る行為が一応法律に定められている。だが、よくよく考えてみると『個人情報保護法』そのものも気持ち悪い物の1つに該当するかもしれない。保護すると言う事は言い換えれば『個人情報を誰にもばらさないように預かり続ける』と言う事になる。つまり、永久に自身の個人情報がその保護している誰かに握られ続ける事になるのだ。表向きでは『保護法』と書いてあるのだから絶対に自身の情報は暴露されないと強制的に捉えているが、これはその保護している側の気分によってはばらすもやめるも自由であるかのようにも見えてくる。なので本当に広い意味では個人情報と言うのは本当に守られてはいないのでは?しかし、このようにどこかの誰かが必ず人間達の『個人情報』を持っていなければ我々はこの世界では生活出来ない。我々の生活や何か問題が起こった時に取る処理等は全てこの個人情報を元に対処するのでこの預ける行為はやはりしょうがないのでは無いだろうか。この個人情報ではあるが、仮想世界では兎も角、それは現実世界でも結構ハッキリ暴露されているのではないだろうか。どこか店に入れば店員や客達に顔を見られるし、それでなくてもただ道を歩いているだけで『顔を見られる』と言う個人情報の暴露に繋がっている。実際は平然と、レベルは低めではあるが、個人情報は日々平然と誰かに見られているのである。では、外を歩くだけで個人情報が見られるのならその『外』と言う世界がもう気持ち悪いのではないだろうか?それは答えになっているとは到底言い難い。先ほど前述したが、これでは生活出来なくなるだろう。第一『外』を歩くだけで暴露される『個人情報』と、ある誰かによって保管される『個人情報』は格が違う。ここで言える事は我々人類は『個人情報』を差し出さなければ生活出来ず、尚且つ、それが無関係な者に暴露されると非常に迷惑な事になるのなら、それを『保護』する誰かと言うのは非常に重い『責任』を背負う事になるのだろう。ただでさえ他者の『個人情報』を握っているその誰か(主に役所やサービス会社か)は気持ち悪いと言うのに更にそれを他者に絶対に公表してはいけないのだからそれは大変な事である。

『個人情報』はさておき、相変わらずと言わんばかりにネット上には悪質、或いは文字通り迷惑なサイトが沢山存在している。またそれがサイトと言えばサイトではあるが、掲示板に無造作に貼られたURLであったりと、その見つけられ方は様々ではあるが、それをクリックしていい事は無いだろう。その内容としてはウィンドウが無限に呼び出されるものだったり、フロッピーディスクドライブに強制的にアクセスしたり、また、凄いサイトの場合、突然幽霊のような恐ろしい顔を表示させて大音量(大抵叫び声である)を流すページが現れたりと、どれも大分前に前述した『ろくでなし』に値しているに違いない。こんなサイトがインターネット上に存在した所で一体どんな利益を得られるのだろうか。生み出されるのは『不愉快』だけだろう。それくらいは作成者も把握しているはずであるのだが、きちんと存在しているのが現実である。だからこそ罠に引っかかって『迷惑』を味わうネット利用者が後を絶たないのだ。しかし、その『迷惑』と言うのも非常に妙なものである。迷惑かどうかを判別するにはその他の何かも必要になってくる。例えばネット上に存在するサイトが全てこのような今日我々が思っている『迷惑』サイトだとしたらそれは普通の物として扱っているだろうからきっとそれは『『迷惑』なサイト』としては扱わないだろう。つまり、結局は『善』と『悪』と同じく、『迷惑』か、『迷惑じゃないか』と言う判断も比べるものがあってこそ認識されるものなのである。だが、難しいのはどこまでが『迷惑』なのか、である。こうやって何かと比べられて生まれた『迷惑』と言うのは結局何を基準にして判断すればいいのだろうか。やはり不要な手間をかけさせたり、無駄な感情を呼び出させたりしなければそれは『迷惑』とは言えないのだろうか。この『迷惑』の判定は個人によってある程度の差は存在すると思われるが、不利益な内容が利用者を不愉快にさせる面についてはまず間違い無いだろう。

周囲に見える存在とは一体何か

気付かない者は恐らくは存在しないと思うが、ネット上の奥の世界には様々な利用者、即ち『人間』が存在している。かなり前に前述した通り、ネット上では主に現実世界にいる『人間』相手に間接的に関わりあっている。しかし、そこで活動をする人間達は現実世界と全く同様の社会性を持っているのだろうか。例えばある場所にメールを送信するとしてその文はきちんと礼儀を弁えた内容になっているだろうか。或いは普段の(その特定の相手に対するある程度限定された)話し方と一致しているだろうか。仮想世界では現実世界とは大分違ったコミュニケーションが展開されていると思われる。現実世界では最初の一文字目を話した時点でもう既に相手に伝わっているが、仮想世界では最後まで自分が言いたい事を入力してそして送信ボタンを押さない限りそれはずっと伝わらない。もしその送信していない文が気に入らない内容であればいくらでも訂正が可能。しかし、このように一回ずつ自分の気持ちを訂正しながらと言うやり取りは社会的に見ると何か変な雰囲気になるのではないだろうか。通常は対面してやり取りしているのだから言葉のミス等も全て反映されるのに対して仮想世界ではそのミスをある程度隠蔽出来るのだ。失敗を隠しながら適切なものだけを送信してそれで済ましてしまっている。このような世界ではかなり社会性が失われていると見えるだろう。

都合のいい内容だけを送信するのもそうだが、ネット上の世界ではどのような社会性が必要とされるのだろうか。今この世界では本当に多種多様で細かい法律が定められているが、それが社会性を示す証拠になっているのかもしれない。何かある特定の『物』があったとして、それに定められた正しい使い方を別の使い方に走らせたとしよう。それは一般的に確実に『悪』と見なされる。では、何故わざわざ『正しい使い方』を指示されなければいけないのだろうか。例えば包丁を家庭内で調理に使う面については一切何も言われないが、外で怖い顔をしながら包丁を持っていれば周りの人間は自然と逃げて行く。当然である。包丁は食べ物を切れるが、人だって簡単に殺傷出来るのだから。そして逃げる皆はその包丁が持っている意味を把握している。だからこそ恐怖する。それは副作用が齎す危害を知っていると言う事である。折角正しい使い方をすれば生活面でも非常に貴重な『物』となっても誤った使い方をして人等を酷く傷つけてしまっていてはそれはただの危ない『物』へと変貌してしまう。顔の見えない匿名性の世界であってもその『物』の使い方と言うのは真剣に考える必要がある。法律がわざわざ存在する意味をそう言う面で考えてほしい。

行動と結果の2つの関係とはどう言うものか

人間は本能的に自分の気分が良くならない事は自分からやろうとは思わないし、やったとしてもそれは意識を持ってしているとは思えない。その理由としては自分にとってその嫌な行動が利益になると思えないからだろう。しかし、嫌な行動=悪い結果として果たして言い切れるのだろうか。きっとそれは言い切れるものでは無い。何故なら『嫌い』と『悪い』は否定的な意味では共通しているが、社会的面で見るとそれは大きく異なる意味を持っている。『嫌』と言うものは単に本人が面倒とか、と言うある意味我侭のようなものから生まれるもので決してその『嫌』と言うものには『悪』が含まれている訳では無い。『悪』とはもう知ってる通り、社会的に嫌われるものである。では、逆に『楽しい』事はどうなるだろうか。やってて気分がいいからと言ってその行為は『善』に入るかと言うと当然そうでは無い。『気持ち』と『善悪』の判断は完全に異なるものとなっているのだ。しかし、インターネットのような匿名性の世界であっても結局は、大体その『嫌』な行為に該当するものが多いであろう、『社会的行動』を守らなければいけないのだ。とは言ってもその『善悪』を判断するのは誰かと言うと、結局自分自身の考えでは無く、基準は『世界が定めた決まり』となっており、大抵の人間はそれを当てにして自分で正確な『善悪』の判断をせず、全てその『世界が定めた決まり』に頼りきってしまっている。結局何かがあるから考える代わりになってくれていると言う考えを捨てきれていないのだ。しかし、実際はそうでは無く、その場と状況に応じてある程度は真面目に何が大切なのかを見極める自身の能力が必要とされるのだ。

この『世界が定めた決まり』と言うのは考えてみれば我々の上に立つ者が作った物であろう。と言う事は結局我々人間は上の者が下した命令であれば何でも、絶対服従と言う事になるのだろうか。もし『決まり』を考える代わりにするのだとしたらそれはまた変な事になる。例えば上の者が下した命令だからと言って「お前邪魔だからさっさと死んでくれ。」って言われたからって「はい、分かりました。」と言う者はまず、確実に、絶対に存在しないだろう。上の者が判断したからと言ってそれが必ず正しいとは限らないし、結果的に良い結果になるとも限られていない。それはつまり、上の者でも間違った判断を下す事があると言う事になる。結果として上の者でも『決まり』を創造する自由と言うのは存在していない事になるだろう。結論から言えば皆が納得する『決まり』を作らなければいけないが、果たして『皆』が納得等してくれるのだろうか。人間の数だけ気持ちも存在しているのだから全員の意見が完全一致するとは到底思えない。では、果たしてその『決まり』の基準はどこからどこまでが良いのだろうか。それは過去の出来事を計算して『決まり』を作るのは出来るかもしれないが、これからの未来を想定した『決まり』を作っていては恐らく永遠に終わらないだろう。新しい技術が出来ればそれだけ新しい問題も生まれていく。結果的に上の者と言うのはこのように延々と『決まり』に縛られていかなければいけないのだろうか。

事実上ハッキリと存在しない倫理上の正解

情報化社会では相変わらずと言わんばかりに異常な程の問題が発生して世間や特定の人物を困らせているが、実際の所、100%誰も困らせない物と言うのは絶対に存在しないと言っても過言では無いだろうか。

『善』と『悪』の面でもそうだが、判断は直面した人間各個人がする事であって、その基準は異常と言ってもいいほどバラバラに近い。良い事と言うのは一般的に周りから喜ばれる、或いはためになる事と言う意味合いが強いが、では、人が喜べばそれは絶対に『正しい行為』として受け止められるのだろうか。確かに正しい場合も多いが、逆に言えば大ハズレであるケースも非常に多い。では、人々が喜ぶからと言って特定の人間を殺したり、国を壊滅させたりする行為は『正しい行為』と言い切れるのだろうか。また、悪い行為として人々から嫌がられる行為をすればそれは『悪い行為』か。これもまた違う。また例を挙げるが、万引きをして車で逃走している若者集団がいるとしよう。その車をある手段を使って木っ端微塵に破壊し、中にいる若者集団を全員捕らえてそのまま警察署に連れて行ったとする。この場合は若者集団から見れば確実にその『捕らえて警察署に連れて行った者』を悪い者として見なすが、本当にこの行為は悪い事と言えるのだろうか。結局これらは人間の奥に潜む感情によって『善悪』の答えは常に変化しているのだ。この判断を固定するのは事実上不可能で、『気持ち』を持っている人間にとってこれを固定するのはまず不可能であろう。

『迷惑』かどうかの判断も実は非常に難しい。確かに不利益になれば人は反射的に迷惑だと思い込む場合が多いが、『迷惑』と『悪』は似たような意味ではあるが、果たして本当に関係は存在しているのだろうか。これも例を使うが、ある人間が自分がするべき作業をしないから上司がしつこく「さっさとやれ」と言ってくるが、この行為が果たして『迷惑』として捉えられるだろうか。『義務』や『責任』をしつこく命じられても結局は本人の『気持ち』によって間違った意味での『善悪』の判断を下しているに違いない。『悪』の面では前述したかもしれないが、では、例えば学問系のサイトになるが、画像や動画は一切貼られておらず、全くの文塗れのページを見てそれは『迷惑』と言えるだろうか。確かにそのサイトは文字に塗れて非常に見辛いし、読んでいて疲れる。根気の無い者なら数行で妥協してしまうだろう。しかし、そのサイトは変な事は一切書いていない。読んでいれば必ず勉強になる事ばかりが記載されている。しかし、読んでいてだるくなる。疲れるようなサイトはでは、結局『迷惑』であって『悪』なのか。やはりそれも違うだろう。確かに精神的な疲労を無駄に背負わされる事になるが、まさかそれを『迷惑』の対象にするのは間違っているだろう。気分が悪化する事が『迷惑』だとするなら、もうしつこいように書いてきたが、何も生まれなくなるし、表現も出来なくなる。きっと『大学』だって無くなるだろう。一部の講義は聞いていて眠くなるし、内容の理解が難しいし、1時間30分も教室内に座っているから結果的に疲れる。しかし、これを『迷惑』として扱うのは明らかにおかしい。『迷惑』と『悪』を結びつけて一つの意味にする者は多いが、結局どちらも完全にハッキリとした『基準』は存在しないのだからこの両者を繋げるのはまだ厳しいのでは無いだろうか。楽しいから良い、つまらないから悪い、面倒だから人の助けになる、楽だから助けに至らない、と言うような=(イコール)的な意味は倫理の世界では通用しないと思われる。

各人間しか所持出来ない本当の答え

結局数学等のように理論上で定められた確実性のある答えと言うものは存在しなかった。どこの誰にでも通用する答えさえあれば情報化社会で荒れる事は無いのだが、結局それは実現性が非常に難しい課題となっている。一体どう言った行動がいかなる理由があっても絶対的な『善』でどのように振舞って何にどう影響を与えれば『悪』となるか、そして行動によって生み出された何かがどう動けば『迷惑』となるか、他者に与えるこれらの要因と言うのは事実上答えが発見出来ず、曖昧な世界を彷徨い続けていると言ってもいいだろう。その時の状況等によって気分の変化が激しい人間にとってこれら『善悪』、そして『迷惑』等と言った判断は非常に滅茶苦茶である。飢え死にしそうな時に道端に落ちてた財布を拾って自分の物にするのは通常『悪』として見られるが、本人にとっては生き残る為に行った『善』として思うだろうし、塀に落書きをしている子供を叱る父親はこの場合、悪い事に対する躾として『善』として見られるが、子供から見れば折角楽しんでいた所を邪魔したとして『悪』として見るだろうし、宿題が大量に出されて非常に忙しい時に親からある手伝いを頼まれた時はそれは通常なら一般的な事柄であっても本人が見れば非常に『迷惑』な誘いとなる。実際、社会的には正解であるかもしれないが、人間本人がそれを『正しい物』として捉えない限り、実際の所は正解とは言えないのだ。『社会的な答え』と『人間の感情的な答え』は必ずしも一致するとは限らない。一致したとして自身がそれを答えだと捉える保障はどこにも無い。やはり答えは自分自身が決めるものでは無いのだろうか。法律があるが、では、我々人間は毎日生きていく上で常に法律の事ばかり考えて生活しているかと言うと、実はそうでは無いだろう。外を歩けば店やら信号機やら車やらの公共物が至る所に置いてあるが、まさかそれらに近づく度に1回ずつ法律の事を考えてるとは思えない。やっていいか、駄目かの判断は法律をわざわざ調べてしている訳では無く、大抵は普通に考えて良いか悪いかを判断している場合が多いだろう。このように、法律に頼りきっている訳では無く、結局は自分で考えているのだ。だとしたら結局普通に生活している場合は『善悪』の判断は自身で下していると言う事になろう。最も、あまりにも複雑な事柄の場合、法律は非常に重要な物となるのだが。著作権やプライバシーの保護は確かに法律に任せておくのが一番かもしれないが、結局そこからは確実な『善悪』は生まれているのだろうか。これに関しては社会的には正しいと言えるかもしれない。このような単純性の無いあまりにも複雑な内容の場合、行いによっては前述した『価値』を損なう恐れもある為、こう言う『縛り』は決して間違いとは言い切れないが、結局それらは自身の『感情』を大きく左右させる事になる。だが、完全に『法律』に従わなければならない場合と『自分の判断』で何とかなる場合の2つの基準もあまり正確とは言えない。いかなる行為に置いても『法律』が必ず付きまとっているのだからどんな時に『法律』を頼るかは結局本人の意思に委ねられているのだ。例えそれが結果的に警察のお世話になるとしても。

倫理的な思考と言うのは完全な答えが存在しない、ある意味未知なる世界なのである。一体どこからどこまでが『善』で、同じくどこからどこまでが『悪』なのかはここで確実的な答えを証明するのは不可能に近い。だが、社会的にそれが『善悪』の基準の過程で正しければそれは社会では『善悪』のどちらかとして的確に処理されるだろう。最も、この時個人の状況等によって一切左右されてはくれないが。だが、『社会的』な場面での『善』、或いは『悪』は『個人的』な場面で『善』と『悪』に一致するかは分からない。だが、社会性と言うのはあまり『個人的』な感情を受け付けてくれないのかもしれない。結局人は周りによって非常に流されやすく、それによって『善悪』の判断も甘くなっていく。だが、『社会的』に皆がしている行為であってもそれは『本当の意味での社会的』に見て間違っている事だって稀に存在する。やはりどこの世界に置いても『本当に正しい事』が確定されているとは言い難い。やはり、最終的な答えとしては、本当の『倫理』と言うのは全て、『自身の心』に存在しているのでは無いだろうか。確実な答えが出てこない以上、このように確定するのが良いのかもしれない。何が『善』で、何が『悪』か、それらの判断は自分の力でどちらかを選択する必要がある。しかし、既に法律で定まっている事柄を行う場合、それに対しては結果の後に自己責任が生じる事もある事を忘れてはならない。

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