ははおや……

  母親……

    Mother……

  Mutter……



恐らくはどのような人間、生物、生命体であってもいるであろう存在を知っているだろうか?
質問として問い質すまでも無いかもしれません。母親です。

貴方にとって、母親とはどのような存在であると意識をしていますか?
一存でも構いません。色眼鏡でも構いません。私意でも、管見でも、思想でも、何でも構いません。

考えてみて下さい。どうして今、貴方はそこに立っているのですか? そして、立てているのですか?
非常に単純な話です。母親が、貴方を産んでくれたから、違いますか?
生命が生命を産み落とし、そしてその産み出された生命がまた新しい生命を産み落とす。
これが出来るのは、女性だけなのです。
確かに男性も必要素材となっていますが、実質的に産むのは女性、即ち母親です。



貴方が幼い頃は、いつも母親の隣にいたはずです。
ですが、年月の経過はある意味恐ろしいもので、それが経つと徐々に母親との距離が生まれてきます。
しかし、その隔離が絶縁を生み出すかというと、きっとそれは違うでしょう。
距離は距離、えんえん、通常であれば、誰でも母親との距離が縮まればそこで温もりを再び感じる事が出来るのです。

そして、歳を取っていくと母親に対する考え方も徐々に変わっていきます。
貴方はどうですか?
小さかった時は母親がいなければすぐに泣いたり、不安になったり、しませんでしたか?
それが今はどうですか? 本当に母親と1日中くっ付いていたりしていますか?
恐らく大半の方々は、今と昔の母親に対する考え方は変わってきているでしょう?

昔のように、いちいち自分の趣味を晒したり出来ますか?
昔のように、何でもかんでも母親にやらせたりしていますか?
昔のように、出来もしないような大きな夢を聞かせたりしていますか?

変わる事は、貴方のこれからを作り上げるという観点で見れば、決して否定する権利はありません。
問題は、母親に対して嫌悪な目で見る事なのです。

時が過ぎれば徐々に貴方にも相手に反発する精神が出来上がる事です。
成長するにつれて、母親に反抗するようになったのを、貴方は覚えていますか?

まるで邪魔者のような扱いをされても、母親はどうでしたか?
貴方の為に必ずどこかで力を貸してくれていたでしょう?
その場では貸してくれなくても、時間が経てば自然と貸してくれたでしょう?

それでも貴方は、反抗しようという意思を持ち続けようとしますか?
そもそも、どうして反抗という概念が子供の心に生まれてしまったのでしょうか?

母親に支配されない為の防衛手段なのだろうか?
母親だけが全ての答では無い事を示す為の主張行為なのだろうか?



少なくとも、母親はどんな形であろうとも、貴方を愛している事には変わりはありません。
貴方の目の前で、物凄い剣幕を見せてきたとしても、貴方は嫌われた訳ではありません。
貴方から命に関係するような暴言を吐かれた所で、母親は貴方に動じないのです。

貴方は愛されているのです。
だからこそ、貴方は今の姿があるのです。違いますか?
母親を嫌ってはいけません。貴方にとってはたった1人の存在なのですから……







      では、もし、本気で母親を避けている子供がいるとしたら、その子供の感情はどのように動いているのだろうか……














 長閑のどかで、空気も非常に美味しい自然に包まれたこの町、スイシーダタウンも今は沈黙が周囲を取り囲んでいる。太陽が地平線の彼方に完全に沈んでしまえば、今まで太陽に照らされていた大地は真っ暗となり、それに釣られるかのように人々もゆっくりとその1日の疲れを癒す為に眠りに付く。

 露店の並んでいた商店街も、夜中になってしまえば売る人間も、買う人間も姿を見せなくなる。彼らは明日の準備の為、そして、疲れを癒す為に我が家へと戻っているはずだ。

 そして、1つの宿の存在を忘れてはならない。

 もうその宿も、夜中であるだけあって、どの部屋も灯りが消えてしまっている。部屋にいる者は今、全員がベッドの中で熟睡している最中なのだ。ランポスとの戦いで、体力を消費させられたのだから、休息を取らなければいつかは身体が壊れてしまうだろう。



――スキッドの寝室では……――

灰色のシャツの格好で熟睡しているが、掛け布団が暑いからか、左脚だけを食み出させて眠っている。
だが、その寝顔の裏では、また異性に関する夢でも見ているのだろうか?



――ミレイは現在……――

しっかりと枕に頭を預けながら、横向きで静かに寝息を立てていた。
掛け布団は乱れておらず、右腕だけが布団の上に乗せられている、といった感じである。
その多少可愛い寝顔の前には愛読書が1つ、無造作に置かれていた。

きっと寝る前に読んでいたのだろうが、途中で本格的に眠気に襲われたのかもしれない。



――テンブラーの姿はと言うと……――

流石に起きている訳ではないのだが、ベッドから上体が落ちており、両脚だけがベッドの上に残っている状態であった。
上半身はあのピンク色のワイシャツを抜いていたから、実質的に裸であり、下は白のトランクスである。
そして床に接している上半身は、両手を大きく広げている姿である為、一応は彼にとって心地の良い環境なのかもしれない。

しかし、あまり人に見られたくない姿であるのは事実だろう……



――そして、ネーデルもやはり……――

全員部屋は個室であるから、基本的にはどのような服装、格好で寝ていても問題は無いのだ。
それでもネーデルは窓際に身体を向けながら、ベッドの中で横になっている。

その青く長い髪が窓から差し込んでくる月の光で僅かに輝いている。
きっとその寝顔も、ほんのりと可愛い空気を漂わせてくれているはずだ。

そうである、今はその赤い瞳も閉じ、明日に備えてその身を休ませているのだ。
普通は、そうだろう。夜中まで起きていても身体には毒であるから、寝ていなければ明日、耐えられないだろう。



――しかし、その両目は開いていた……――

まるで悪夢にでもうなされているのか、いや、眠っていないのだから悪夢にすらうなされていない。
睡眠の世界でしか遭遇する事の無い夢魔とは別の何かに襲われているらしい。

単に眠れないから、そんな易しい理由では無いだろう。
その赤い瞳は恐怖で揺れており、まるで目の前に視覚的な恐怖を覚えさせてくれる絵画でも置かれているかのようだった。
自分の身体を覆っている掛け布団を両手で強く握り、室内の寒さ以外の何かによって、身体自体をも震えさせている。

眠れば、悪夢に襲われてしまうから、寝る事自体を拒否しているのだろうか?







 ベッドの中で震えていたネーデルは、自分自身を落ち着かせる為に一度ベッドから状態を起こした。

「はぁはぁはぁはぁ……」

 激しく、そして速いテンポで深呼吸を連続で行う。顔に僅かな冷や汗を流しており、その出される吐息は非常に熱そうだ。起き上がっても、その細く引き締まった身体の震えが治まる事は無かった。袖の無い青い服の中で、その身体が今何に怯え続けているのだろうか。

「はぁ…………はぁ…………」

 自分で自分を落ち着かせる事にある程度は成功したからか、その深呼吸の速度及び回数が大幅に減り、それでもゆっくりと気分を落ち着かせる為の呼吸を続けながら、窓の外に顔を向けた。

 奥に映るのは、暗く染まった建物や、茂みではあるものの、見方や考え方を変えれば青く・・染まったとも感じられるかもしれない。しかし、今は例え方を持ち出し、美術的な感懐を抱いている余裕は、少なくともネーデルには無いはずだ。



(もう、皆、寝たわよね……?)

 自分が今いる寝室以外の場所で全員が熟睡していると信じながら、ネーデルはベッドから降りた。



*** ***



 左側にそれぞれの寝室へと繋がるドア、そして、右側に窓が設置された木造の廊下を、ネーデルはゆっくりと歩いていた。朝や昼であれば、窓から入ってくる太陽の光で明るく照らされると同時に、宿泊客達の話し声等も響き、非常に賑やかで明るい情景が映し出されていただろう。

 しかし、今は夜という時間帯を通り越し、夜中である。

 喋り声1つ聞こえず、廊下とネーデルの紫色のブーツがぶつかり合うその音が、何故か妙に怖く聞こえてくる。まるで幽霊が背後から付けてくるように考えられなくも、ない。

(ホントはこんな事……したくないんだけど……皆の為ならわたしは……)

 ネーデルは寂しそうに軽く俯き、そして同じく軽く赤い瞳を細めながら歩き続ける。まるで他人に迷惑をかけたくないが為に、この夜中まで密かに起き続けていたかのようである。

 だが、何をしようとしているのだろうか。



 今ネーデルの前方に見えているのはT字状の分かれ道である。左に進めば、視覚で感じるものとして、宿の中心部へと行くような気になれるし、逆に右に進めば再び窓の並ぶ廊下を進む事になる。



―タン……

―タン……

―タン……



 ネーデル以外の場所で、廊下を叩く音が静かに響き出す。乱暴な力こそ加わっていないが、この夜中の時間帯を考えると、非常に不気味である。だが、その音を発している正体を勝手に宿泊客以外の脅威な存在として意識するのも間違っているだろう。

「!!」

 しかしそれでも、ネーデルにとっては無視出来ない音である。これから向かう丁度その場所から音が響いているのだから、一種の障害物である。一度足を止めるが、足音はどんどん近くなっていくばかりである。



――相手によっては、ネーデルは……――



「うあぁ〜ぁ〜ぁあ……」

 ようやく分かれ道の左側の通路から、足音を放っていた人間が姿を現した。大欠伸あくびをかいているのは少年であり、紫色の多少乱れた丸っぽい髪に、白いタンクトップ、そして青いトランクス姿をしていた。

 他人が見ればとても廊下を歩けるような格好では無いと感想を述べると思われるが、この少年は夜中であるから、多少格好が変であっても大丈夫であると自分に言い聞かせていたのだろう。

 因みに彼は、アビスである。

「あっ……」

 ネーデルは、眠たそうに目を擦っているアビスと正面同士なると同時に言葉を失い、追い詰められたかのように一歩だけ、後退した。



「ってあれ? ネーデル? お前何してんだよこんな時間に」

 アビスは眠気によって頭を多少ではあるが、無意識に揺らしながら、そして立ち止まり、目の前にいる少女に今ここにいる理由を聞き出そうとする。

「あ……わ、わたしですか? えっと……トイレです」

 きっと別の目的があるのだろうが、ここを切り抜けるにはそれしか無いとネーデルは考え、落ち着きながらそう答えた。

 アビスは激しい眠気に襲われている印象を与えてくるが、ネーデルはそのような雰囲気を見せ付けない。案外精神力も強かったりするのだろうか。



「あ、そうか……。俺も今ションベンしてきたとこだから、お前も早く寝ろよ?」

 あっさりと納得したアビスであるが、女の子を相手に単刀直入にその名称を出しては少し不味いものがあるだろう。しかし、アビスはそのような事には御構い無しに、ネーデルの横を通り過ぎていく。

「はい、分かりました」

 隣を通っていくアビスに笑顔を混ぜて軽く頭を下げるなり、ネーデルも再び歩き出して分かれ道の目の前に辿り着く。だが、アビスのたった今言った不適切な言い方には反応を見せなかった。きっと、今ここで時間を使っては本当の目的を果たせなくなると考えたからだろう。



――右へ進もうとしたが……――



「ネーデル?」

 アビスの声がネーデルを呼び止める。

「え? はい?」

 ネーデルは感付かれたかと、肩を激しく飛び上がらせながら、アビスのいる場所へ振り向いた。



「トイレお前あっちだぞ?」

 アビスは右の人差し指で通路の左側を差しながら、ネーデルに正しい場所を教えてやった。

 実質的に見ればアビス自身の左側を差しているとも言えるが、純粋に方向を教えるという観点から見れば、それでも充分に相手には伝わるだろう。指だけを見てもすぐに方向は分かるのだから。

「あ……そ、そうですか? すいませんでした!」

 単に方向を教えられただけだったから、ネーデルは安心すると同時に頭を下げて謝罪した。青い長髪のいくらかが顔の前に下りてくる。



「うん……。そんじゃ……」

 分かってくれたと判断したアビスは、そのまま再度歩き始め、自分の寝室へと戻っていく。



――それを確認したネーデルは……――



 左の廊下から、右の廊下へと駆け足で、そして音を出来るだけ殺しながら進んでいく。



*** ***



 月の光でうっすらと照らされる宿の外。

 今、ネーデルは宿の外に設置されている屋外洗面所の前に立っていた。蛇口を上に向け、上に向かって噴き上げられる水をネーデルは今真下から口で受け止めるように飲んでいる。冷たいその液体が乾いた口の中を冷やすと同時に潤していく。

 そして、眠気を覚ます為か、今度は蛇口を下に向け、両手を合わせて水を溜め込んでからそれを自分の顔に擦り付ける。前屈みとなっている為、青い色をした短いスカートの後部が多少持ち上がってしまっている。もし男性が背後にいた場合、確実に目がそこへ行ってしまう可能性があるが、今は誰もいないから、大丈夫だろう。

 顔面を冷水で濡らし、眠気を改めて吹き飛ばしたネーデルは、拭く物を持ってきていなかった事に気付くが、わざわざ宿の中へ戻る事はしなかった。

「後は……離れるだけね……」

 まるで遥か遠くに存在する偉大な目標を掴み取るかのように、恐らくは手を伸ばしても、本気で走り続けても永遠と辿り着かないのではないかというくらい離れている遠方の夜空を赤い瞳で強く凝視した。

 体内では睡眠不足によるなまりの障害を思わせる疲労が残っているものの、夜空を見続けるその瞳は真剣そのものだ。



――やがて、その場から走り出す……――



*** ***



 木々が密集する地、即ちそれを人は森とも呼ぶが、夜空を見上げる為の視界は確保されており、もしこれが朝や昼であれば、木々に包まれた優しくて暖かい空間となるはずだ。

 現在は夜中であるから、見上げる事によって無数の木の葉と枝の隙間から夜空を眺められる。これはこれでまた幻想的であるが、その下では必死になって残りの体力を使っている少女の姿があったのだ。



(なんで……あいつらがこの世界に関わるのよ……!!)

 ネーデルは両腕を強く振り上げながら緑に包まれた美しい自然の中を駆け抜けている。青い髪が後方に向かって波打ち、髪の持ち主の心情を上手く表現している。

 アビス達の前では敬語を使っていたネーデルでも、組織が相手となれば、その配慮を意識しなくなるようだ。そのやや乱暴な呼び方と、自分の今立っている場所をそこまで大袈裟に表現する様子が、これからの不安と奇妙な疑問を呼び起こしてくれる。



(それに母さん……。悪いけど……わたしは戻らないから!! 絶対に……!!)

 走る速度を一切緩めず、心で思い浮かべる対象を一度変更して、自分なりに持っている意思を強く表した。

 母親をどう思っているのだろうか。ネーデルは今その場にいない母親に反抗を続けながら、その赤い瞳に僅かではあるが、力を入れた。



(あんな実験なんて……おかし過ぎる……!! 人道外れてるから……!!)

 母親が一体どのような活動をしているのか、それは分からないものの、必死で否定を続けるネーデルだって、走り続けている以上は精神的にも、肉体的にも平安であるはずが無い。

 眠気自体は興奮状態によって、この場の状況と照らし合わせると良い意味で妨害されてくれているものの、疲労自体は体内に染み付いたままである。身体のあちらこちらが重々しく感じられ、意識の方も時折くらくらとしてしまい、油断をすればそのまま倒れてしまうような状態だ。

 更に、今は現在進行形で、しかもほぼ全速力で走り、あのスイシーダタウンから距離をとっている最中なのだ。元々少なかった体力が急激な速度で消費され、運動量によって体温も上昇するのだから、汗だって今身体中から流れている。



(これ以上……犠牲なんか出さないでよ……!! 不老不死だなんて……そんな事……)

 母親が達成しようと尽瘁じんすいしている目的の一種なのかもしれないが、その為に消えていくものも存在しているようである。

 体内から流れる汗は容赦を知らない。額から流れ、細い胴体も青い服の裏で湿り、両脚も汗で濡れてくる。アームウォーマーのような両腕を包んでいる装飾具と上着の間から映る腋の下も、汗で濡れている事を本人は感じているはずだ。

 それでも脚を止める事は許されないのだ。



(話なんて……、わたし気持ちは絶対に……)

 身体の奥から迫り来る疲労を押し殺しながら、ネーデルは走り続ける。誰とどんな話をするのか、気になる所であるが、ネーデルの意思は相当に強固な作りになっているようだ。

 そして、睡眠不足すらも重なっているその状況で、走る速度も緩めないのだから、実際は相当体力もあるのだろう。

 前方からぶつかってくる風があまりにも涼し過ぎる。顔面に当たる風は額の汗を吹き飛ばし、上着の隙間から入り込んでくれる風は、その裏の胴体の汗をいくらか紛らわしてくれる。

 しかし、最も気持ち良く感じる部分は、短いスカートの中から大きく曝け出された太腿なのかもしれない。ぶつかる風が汗を散らせ、そして熱を持った脚を冷却する。その風は、脚の付け根にまで及んでいる事だ。



――僅かな空気の変化を感じた……――



(!!)

 それを感じたのは、言うまでも無くネーデルだ。後ろから迫っているであろう脅威に向かって赤い瞳で一度睨みつける。

 確かにその背後には誰の姿も存在しなかったが、もうここで単独の世界ひとりぼっちでは無くなってしまったのだ。



ヴィイイイイィヴィィイン!!!

 電気と弦の振動を巧みに混ぜ合わせたような音を響かせ、紫と赤の色を組み込んだ帯状光線レーザーがネーデルの足元をなぞるように焼いていく。



「ふっ!!」

 軽く気合を飛ばしながら、ネーデルは自分の真横から飛んでくる光の凶器を回避する為に、そのまま地面へと飛び込んだ。そのまま胴体は地面に落とさず、両手を使って側転し、再度綺麗に地面に着地する。後方を向きながら。



「誰よ今の!? きっとメイファね!? どこにいるのよ!?」

 アビス達に対しては誰が相手でも敬語であったというのに、彼ら以外が相手になるとなれば、ネーデルの口調も少女らしさは残されていながらも、やや気の強さ、乱暴さも垣間見えるようになってしまうらしい。

 今行われた、飛竜の攻撃として見るのも疑わしいような現象を見た事によって目星を付けられたのか、張本人の名前を叫びながら、その場から動かず森の周囲を見渡した。



――きっと、案外近くにいるものだ……――



映るのは、ネーデルの華奢なイメージを思わせてくれる背中だ……

とりあえず、今は後ろを気にしている様子は無い……

隙だらけである……

徐々に近づいていこう……

そう、どんどんネーデルの青い服が近づいてくる……

いや、こちらが近づいてるのだ……

手に持った……

このナイフを使って……!!




――近寄る気配を、ネーデルは逃さなかった――



「やっぱりね!!」

 ネーデルはまるで場の空気も弁えずに行為に走る痴漢男を睨みつけるような鋭く恐ろしい目つきで背後を確認し、後ろを振り向いた反動で青い髪を大きく跳ね上げながら、右脚に力を込めた。



――それが意味するものは……――



 なんとネーデルに向かってくるのは、刃物であった。淡い青に不気味に光るその刃が、黒い手袋を装着した右手によって前へ前へと伸ばされていた。気付くのが遅ければそれだけでネーデルは終わりを迎えていたのだろうが……



バァン!!

 ネーデルはその伸ばされた右手首を下から突き上げるように右足で蹴り飛ばす。その怒りさえ、いや、怒りそのものを現出させている表情を見ると、実際に蹴撃しゅうげきを受けた被害者は相当に痛い思いをしたはずだ。



―ヒュン……

 青く光る奇妙なナイフは遥か真上へと飛ばされてしまう。



「痛っ……。いきなり蹴――」

 手持ち無沙汰状態となった、その黄緑のポニーテールの背中まで伸ばされた髪をした少女が右手を手首から振りながら何歩か後退する。

 自分を蹴ってきた青い服の少女に文句を飛ばそうとするが、その声は止められた。



ビュン!!

――ネーデルの右蹴りが敵対者を再び狙う!!――



「うわぁあ!!」

 多少生意気そうなその声色で、少女は横から恐ろしい程の速度で飛んでくるネーデルの右足に対してあまりにも素直に怖がり、水色の瞳を強く閉じた。



スンッ……

 水色の妙に愛らしい瞳を持った少女が打撃を受ける事は無かったのだ。その代わり、すぐ左を見れば、爪先つまさきをピンと伸ばされたネーデルの右足があるのが分かる。即ちこれは、右足と少女の顔がぶつかり合うギリギリの場所で、右足が止まっていた事を意味しているのだ。



――少女は、水色の瞳をゆっくりと開く……――



「……」

 少女は何も言う事が出来なかった。ナイフを弾き飛ばされ、しかも蹴られる寸前で相手に情けをかけられたのだ。屈辱さえも浮かび上がってしまうが、ネーデルの前で言葉を失った。



「わたしに近距離戦は通用しないって、知ってるはずよ?」

 ネーデルは自分の右足を未だに目の前の少女の横に維持させながら、理解の悪い相手に言った。その声色には優しさでは無く、威圧感が混ざっており、友好的な知人がいれば確実に嫌な予感さえ覚えるはずだ。



―ヒュンヒュン……



 何やら空から風と風の間を高速で横切っていくような音が聞こえてくる。耳障りな音量では無いが、上を見上げれば音だけでは無く、物体さえも落ちてきているのだ。

 だが、ネーデルは上から迫る音と物体には見向きもせず、左脚だけで自分の身体を支えた体勢を取り続けている。



「メイファ、あんな小道具使ってもわたしには通用しないわよ?」

 ネーデルはすぐ目の前にいる濃緑の服を着た少女に向かって言い放ち、並みの力では敵わない事を再度思い知らせると同時にゆっくりと持ち上げていた右脚を地面へと戻していく。

 そして、ほぼ同時に空から戻ってきたナイフのの部分を、ネーデルは軽々と右手で受け止めた。当然抜身の状態であったから、直接見て確認しなかった部分が異質な空気を漂わせている。

「カッコつけてんじゃないわよ。さっきまで逃げてたくせに」



ザザザァアァアアア!!!



 メイファは今までのネーデルの姿を見ていたのだろうか。まるで言葉だけで仕返しでもしてやろうとそんな事を言いながら、地面を滑るようにネーデルから距離を取る。上体を後ろに反らしながら、軽快に地面を滑っていく。

 とても通常の人間が見せられるような技とは思えないが、これだけの身体能力を持ちながらも、やはりネーデルに敵わないというのが人間関係の複雑さというものなのだろうか。



「あの手紙、メイファがわざわざ送ってくれたものよねえ? 一応感謝はさせてもらうわ」

 距離を取ったメイファに確認の質問をした後、ネーデルは右手に持ちっぱなしだった青い刃のナイフをほぼ直線状に、垂直回転を加えながらメイファへと手首のスナップだけを使って投げつけた。

 僅かながら山を描いているものの、やはりほぼ直線状であり、その飛ぶ速度も非常に速い。



パシッ!!



「ありがとう感謝してくれて。ゼーランディア様の頼みだから、悪く思わないでよね?」

 驚く事に、メイファはまるでナイフの到着地点を初めから分かっていたかのように、右手を顔の横で広げ、そして上手い具合に柄の部分で受け止めた。そして、そのナイフをそのまま握るなり、ナイフは消滅していた。まるで手品でもしているかのようである。

 受け止める際、もし刃の部分が手に当たったら、とかは考えなかったのだろうか。

「ゼーランディア……やっぱりそうだったのね……。だけどわたしに用があるのって母さんでしょ!? なんで所属だって全然違うのにいちいち介入してくるのよ!?」

 恐らくはあの臙脂えんじ色の筒の中身を読んだ時から関係者は把握していたのだろうが、ネーデルは所属部隊を考えると自分の所属以外の者がどうして関わる必要があったのか、理解出来なかった。

 ついでに言えば、その名前を聞くだけで動揺する部分も気になってしまう。



「そりゃあナディア様に頼まれたからでしょ? 頼まれなかったらゼーランディア様だって動かない――」
「それくらい分かるわよ! なんで母さんがいちいち頼んだりしたのよ!?」

 メイファは得意気に、今回のようなケースに発展した理由をし始めるが、ネーデルの聞きたかった部分はそこよりも更に奥であった。

 遊び半分で人差し指の上から炎の球を作り出している少女に向かって、ネーデルは怒鳴り声をあげる。



「さっさとあんたを連れ戻したいからなんじゃないの〜? それにゼーランディア様は人間の死体をどうしても収集したいっておっしゃってたから、ナディア様とは凄く都合が良かったのよ。交換条件ってやつかしら? それにだって、こんな星の環境じゃあ長く活動出来ないしね」

 指の上で停滞させていた緑色の奇妙な炎を拳程度の大きさに膨張させながら、メイファは自分の上司に当たるであろうその名前に敬称を付ける事は忘れず、まるで他の星の存在を思わせるような意味深な発言をする。

 しばらくすると、その緑色の炎はまるで蒸発するように煙となって消滅した。

「ゼーランディアも自分の身体元に戻そうと考えてたりするの? 骨だけじゃあ不便そうだからねえ」

 ネーデルは身体の奥から徐々に突き出てくる恐怖を紛らわす為、殆ど膨らんでいない胸の前で腕を組み始める。だが、やはりネーデルは相手の実際の姿を見た事があるのだろうか。



「強がるなんてみっともないわよ〜? ネーデル確かゼーランディア様の事思い浮かべて凄い怖がってたじゃん。もし戦う事になって、今のような状態続けられるの?」

 まるで嫌味でも言うかのように、メイファは妙に可愛らしく笑みをわざとらしく浮かべながら、両手を腰の後ろに合わせてゆっくりとネーデルへと近寄る。本心では怖がっている事に間違いの無いネーデルを、直接落ち着かせてやろうとでも思っているのかもしれない。

「……さ、さあね……。でも実際にどんな風に戦ってくるか……期待するのも楽しいん……じゃない?」

 先程の疾走の過程で流れた汗がまだ細い頬に残っていたから、ネーデルはそれをゆっくりと左手で拭いながら返事をするが、姿を少しでも思い浮かべるとやはり落ち着いている事が難しくなってきてしまう。

 残っていた汗だけでは終わらず、何だかまた新しい冷や汗が流れ始めているようにも見えてくる。

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