―ドサッ……
「うぐっ……!!」
状況察知が遅れたと同時に、
ここでやっと知った事は、触手に殴り付けられた事である。
■εε◆ 触手が真っ直ぐ伸びたのだ…… / STUN STRAIGHT!! ◆εε■
深紅の触手に対し、全長の値を馬鹿にする事は出来ない。
ピンと伸ばせば
それが少女の死角から殴り付けるのに適した構造となっていたのだ。
「今のって……うっ……」
倒れていたネーデルだが、その揺らぐ視界に映ったのはグネグネと動き回る1本の触手だった。
わざとネーデルの前でうねっているのは、恐らくは小馬鹿にしているからだろう。
まだ立ち上がっていないネーデルにとっては
たかが触手1本にやられる悔しさもあり、尚更立ち上がろうと力を入れるネーデルである。
まだ、1本しか姿を見せていないのだ。
υ―υ 脚を寒気と痛みで震わせながら立ち上がるが……
―ゴゴゴ……
地面の中で、耳を澄まさなければ耳で聞き取る事が難しい程度の音量が鳴り響く。
すぐにネーデルの表情に不安が映り込むが、無理も無い話である。
細長い
(さっさと……終わらせないと……)
ネーデルの両目が強く
きっと触手を撃退してしまえば
先程は不幸にも先手を取られ、両腕両脚を縛り付けられ、攻撃の1つもする事が出来なかったから、今度こそは実現させるチャンスだ。
しかし、高熱と頭痛に
――ネーデルの背後から現れる
3本とも先端だけをネーデルの黒いブーツ程の高さまで地面から出させ、
真下付近からネーデルに狙いを定めているようにも見えるが……。
しかし、土を掘り起こした音はネーデルに察知されてしまい、ネーデルに距離を取られてしまう。
「来たら……はぁ…はぁ……斬り裂いてやるからね!!」
後方へと跳びながら嫌らしい太い触手から距離を取り、いつでも相手に出来るよう両腕を構えながら言い放つ。
僅かに先端を出した触手達が先程ネーデルの皮膚を舐め回した奴らかどうかは不明だが、ネーデルにとってはその区別は今はもう無い。
先端から生える細かい黄色の触手達も実に嫌らしく、その中心から目立って伸びた利休色の突起も薄気味悪い。
ββ ネーデルの挑発行為が
3本が一斉に細長の胴体を地面から引き摺り出す。即ち、ネーデルに
傷だらけの少女を標的に、
α≫ 3本とも、倒壊する灯台のように倒れかかり、攻撃を仕掛ける
一度反り返り、反動を手に入れる事によって相手に対する打撃力を激増させる。
その力を溜める姿を確認していないはずの無いネーデルは
αα≫ 前へ踏み込みながら横という横へ高速で薙ぎ払う!!
γγ――
―ブュゥウウウゥウ!!
1本の触手が
残りの触手2本も黙っておらず、1秒も油断を許す事をしない。
だが、ネーデルに襲い掛かるやり方は最初に犠牲になった奴と変わらない。
ψψ 灯台倒れ、発動!! ◆◆
1本目を斬り倒し、まだ身体が捻れた状態であるネーデルを狙うのは、
爪で武装していても、体力が衰えているならば確実に狙うチャンスなのだ。
「近……寄るなぁ!!」
―αβ 両腕の爪は主人を護る!!
激しい頭痛の影響で感情すら制御する事も儘ならない状況なのだろうか。
自分に付着した透明度の高い黄色の液体にも意識を向けず、まだまだ活躍出来る両腕で薙ぐ。
ネーデルと同い年の男性による殴撃を
少女の目付きは鋭くなり、接近を目論む軟体植物が無残にも切断され、黄色の液体を噴出させながら地面へと引っこんでいく。
ε◆◇ 少女の怒号に恐れを抱いたか? / GATHER THE DANGER? ◇◆ε
触手には痛みを覚えるだけの神経が通っているのだろうか。
液体を無限とも思わせる程に、噴水の如く液体を放出させながら地面に、太く紅い本体を沈めていく。
ネーデルの赤い瞳はもう切断された触手から離されていた。
滑らかな横線を描きながら怪奇植物を斬りつけた爪を携えている右腕を力無く下げながら、本当に狙うべき相手に目を向ける。
そこに直立している者は、病魔に侵された少女を黙って目視している。触手に役割を全て預けていたのだろうか。
汗の激しく目立つ目の周りであっても、赤い瞳は強くゼーランディアに向けられた。
苦しくても、言いたい事があればそれを伝えなくてはいけない。
「いつまで……小細工に
ゼーランディアに弱った身体を向けたネーデルだが、突然右膝の裏に痛みが走り、両腕の構えが崩される。
自分の体重を支えられなくなった訳では無く、外部からの要因によってこの事態に陥れられたのだ。
痛みだけでは無く、右脚を強引に持ち上げられるように動かされたのも記憶に新しい……
ε▲ 千切れた触手がネーデルの脚を狙ったのだ…… / RESISTANCE OF DEATH ▲ε
地面へと身体を引っ込めながら、徐々に地面から見て長さが短くなっていく本体がネーデルの脚部に目を付けたのだ。
元々眼は存在しないが、先端から
横に払うように攻撃箇所に打撃を食らわしたのだろう。
単に打撃だけでは無く、ネーデルの右脚を黄色く濡らし、左脚にも被害を加えてしまう。
胴体側にも大きく飛び散り、色合いは決して良くは無い。寧ろ、悪い。
――重心をずらされそうになるものの……――
無理矢理押された訳では無かったから、転ばされずに身体を支え続ける事は出来た。
反れそうになった上半身を前へと突き出せば転倒を免れる事が出来る。
だが、膝の裏に残された鈍い痛みはしつこく付き纏う……。
▼β 死角を狙い、正常な触手が…… / SCOOP OUTRAGE β▼
ネーデルの知らぬ間に、傷1つ付いていない元気な触手が顔を出す。
地面から現れるなり、地面と平行に伸び、まるで横棒の如くその姿を表現していく。
力を注ぎ、そして……
――ネーデルの背後から、足元へ!!――
―ブゥン!!
―ドスッ!!
「あう゛っ!!」
触手はあまりにも残忍な
ただ唯一の情けと言えば、関節の可動方向に逆らっていなかった点だろうか。
それでも何も保護されていない脚を狙われれば、直接その痛みは伝わるものだ。
ネーデルは両脚に打撃を受け、その打撃が少女の支えを突き崩す。
とうとう支えきれなくなったのではない。強引に両脚を押し出されたのだから本人の意思とは関係無く、その結末を辿る。
――背中から地面へと倒され……――
「うぐっ!!」
背中にも鈍い痛みが激しく走り、瞬時に
今ネーデルを転ばした喜悦の植物は次なる企みを計画していたのかもしれない。
獲物の少女はすぐに立ち上がれる状態では無い。
単純であると同時に的確な思考を伝送される触手達の視覚に映るものは無抵抗な女の子だ。
「う……ぐ……」
物語を感じさせる台詞を残す事も出来ず痛みによって歪んだ一声しか出せなかったネーデルだが、
薄く開いていた赤い瞳には、まるで
物理的な苦痛と病的な苦痛が混ざり合う中で、唐突過ぎる状況に対する手段が身体の全神経に伝えられる。
φφ▽ 三方に開閉する口が牙を剥き…… / TRIDENT SUCTIONER!! ▽φφ
中心から3つに開いた植物の正体は紛れも無く、先程の触手そのものだ。
だが、僅かに体組織が異なっているのだとこの場所では認識するしか無いだろう。
開いた口と口の間に粘液が糸を引き、銀色に奇妙に輝く、小さな鋭い歯がビッシリと並んでいる。
深紅の胴体はやはり柔軟な動きを見せつけている上、確実にネーデルの顔面を狙い、近寄ろうとする。
『キァアアァア!!』
毒蛇を連想させる鳴き声を放ち、立ち上がっていない少女に食らい付こうと企んだのだ。
直線軌道を突き進み、表情の険しくなった少女に牙を差し出す。
――表情? 険しく?――
「!!」
3つに開いた口がたまらなく気味悪かっただろう。
粘液と鋭牙に襲われる事を回避する為、横に向かって力を加える。
加えられた身体はネーデル本人の意識を受け取り、地面の上を転がり始める。
―ドン!!
ネーデルのいた場所に牙を剥いた触手が力任せに落下する。
先端が激しく土の地面に張り付いているが、まだ触手は噛み付く対象を間違えていると気付いていないようだ。
少女と間違えられている土は、ゆっくりと抉られ、触手の口内へと取り込まれていく。
(あんなのも……いたの……?)
地面に吸い付いている牙持ちの触手を横目で見ていたネーデルは、重たくなっていた身体を立ち上がらせながら短過ぎる感想を呟いた。
両膝と両手を使い、立ち上がろうとするが、地面に触手が潜んでいると考えれば気持ちが落ち着かない。
寒気がしつこく走る身体に鞭を入れ、立ち上がった瞬間に目の前の地面から深紅色の太い物体が顔を出す。
―≫ 先端を折り曲げ、広い面積で殴りかかるように……
早急に母親の元へと送られれば良いというのに、病魔で身体の感覚が麻痺していても抗うのか。
意識を保つ神経が異常発達している少女に終焉の鉄槌を下す為、少女の胸部に狙いを定める。
「はぁ!!」
(しつこ過ぎ……)
回避神経の鍛えられているネーデルの真正面から襲い掛かるのは自殺行為に等しいのだろう。
ネーデルの右腕に備え付けられた白銀に輝く爪が、下から上に斜めに向かってラインを描き、斬り払う。
1本があの世に送られたその刹那、左から気味の悪いオーラが漂ってくるのを知る。
そうである。他の触手達も一斉に顔を出したのだ。
――風の中を進む音で全てが把握出来る……――
もうネーデルの中では触手を目で確かめ、その後の取るべき行動を分析している余裕は無かった。
振り向いて即座に左手で相手に決定打を与えるのが先である。
真っ直ぐと顔面を狙ってきた触手の先端を左に反れて回避し、上から叩き付けるような斬撃をお見舞いする。
伸びた触手はスッパリと斬られ、まるで筋肉の力が失われたかのように地面に力無く倒れる。
左腕が逞しいラインを描いていたのだが、ネーデルの背中にたった今伝えられたのは、打撃である。
―ドスッ!!
「ぐっ!!」
(また……後ろから……!!)
きっと鞭のように触手を
だが、ここまで来ていちいち鈍痛の1つで怯んでいたり、泣いていたりする余裕は無いだろう。
重たい痛みを堪え、仕返しと言わんばかりに右脚に力を注いだ。
両腕に装備されているはずの爪を使わなかったのは、短い判断の間に生じた誤差なのだろうか。
――素早く振り向き、威嚇している触手に蹴撃を!!――
「とぅあぁ!!」
打撃を食らわし、役目を半分程度果たしたから、自己陶酔をしているのか、少女の背中に触れた事を喜んでいるのか、
しかし、仕返しとも言えるその2連の蹴撃はグネグネと直立していた触手さえも軽々と怯ませる程の威力だったのだ。
ネーデルの黒いブーツが直撃すると同時に被撃箇所が緩く直角に曲がり、切れの良い音が2連で響く。
中間蹴りを連続で、そして素早く食らわし、よろめいた隙を狙い、最も威力の強い右腕の爪で引き裂いてしまう。
――牙を持った触手、再度、再び、再来……――
『キァアアア!!!』
また背後から狙われるが、毒蛇を連想させる鳴き声が瞬時にネーデルの思考回路を活性化させてしまう。
恐らくは頭痛や寒気が走っている事を一時的に忘れてしまっているのかもしれない。
ネーデルに今出来る事、それは俊敏なる後ろ蹴りである。
「懲りない奴ねぇ!!」
それが気合だ。
ネーデルの身長よりも高い場所から迫ってきた邪牙なる触手であっても、その場所を少女が攻撃出来ないはずが無い。
上から襲い掛かる貧欲な牙の接近を拒むべく、傷や黄色の液体が映る右脚を伸ばす。
―ガァン!!
細かいとは言え、牙は硬質であるらしく、同じく硬質であるブーツの裏が鋭牙とぶつかり、鉄のような音を鳴らす。
口の中央を蹴りつけられ、触手はそのまま仰け反り、ゆっくりとネーデルから離れていく。
もう周囲は大人しくなっているようであり、すぐに本当に
αφ 屍骨龍は
距離は遠くは無いが、近くも無い。
きっと奴の気を逸らす事が出来れば触手も動作を停止させるだろうと考える事が出来た。
しかし、走り出した途端に意識が真っ白になりそうになる。確実に病状は悪化している。
流れる汗の熱も上昇している。身体に力を入れようにも、上手くコントロールさえ出来ない。
だが、ネーデルはゼーランディアに向かっていく。触手の快楽地帯から抜け出し、血の滲んだ真っ白い歯を食い縛る。
――しかし、ゼーランディアの弱点なんてどこにある?
――考えている間にもう究極の不死龍と間近に……!!
αα 白銀の爪がゼーランディアを引き裂く!!
ββ そう、あと少しでそれが実現される!!!
γγ だが、すぐに復元されてしまうのがオチであるが……
――やけに落ち着いたゼーランディアは……――
『ジーティレーヴァ……』
不可解な言語を再び放ち、ネーデルの飛び掛りを回避する為なのだろうか、必要最低限の距離分を左にずれる。
しかし、恐らくゼーランディアと全く同じ方法でずれる事は、人間にはまず不可能な行動だったはずだ。
ρρ◆
「!!」
(何よ……今の……!!)
ネーデルの目の前で残像が現れたが、ネーデルは声を出す余裕等あるはずが無かった。
元々相手は地球外の
徐々に時の流れが遅くなるのを感じ、それは相手の
そうであれば最も幸福なのかもしれない。
――しかし、何故だろうか……。薄暗いはずの夜の世界が赤く染まっていく……――
――これは太陽の光で明るくなっていっている現象なのだろうか?――
――だが、地面は奇妙な黄土色で染まっている……――
――周囲は今まで森林だったが、今はまるで要塞を思わせる建造物に支配され……――
――夜中の世界がぼやけ、ぼやけた世界が鮮明になっていった時に、今の世界がそこにあったのだ……――
――空は暗い緑で染まり、遥か地平線の彼方では絶えず雷が落ち続けている……――
―≪ ネーデルはと言うと、その場で身体を硬直させられていた…… ≫―
◇ UNLIMITED FREEZE ◇
降り立つ事も出来ず、飛び込んで斬り付ける為に伸ばした右腕も、跳躍の為に伸びたり畳まれたりしている両脚も、
風を受けて靡いた青い髪も、青い服も、スカートもその全ての動きを止められていた。
唯一止められていなかったのは、赤い瞳と、意識だけである。
(何よここって……。地球……なの?)
直接言葉を発する事は出来なかった。
黄土色に染まった大地のすぐ上にいるネーデルが確認したものは、全てに於いて黒に近い色を採用している、立ち並ぶ
空は非常に暗い緑で包まれているのにも関わらず、大地の上は赤く、そして明るく照らされている。
更に空を凝視すれば、太陽らしき恒星が1つ浮かんでいるのだが、今いる星に接触するのでは無いかというくらいの距離にある。
すぐ間近で燃え盛る姿を眺める事の出来る星であるが、熱で大地が干乾びている様子は一切無い。あまりにも不自然だ。
地平線の奥では常に雷が無音で地面に落ち続けているが、近距離を見れば何故か人間の物と思われる頭蓋骨が杭の上に刺されていた。
それもいくつもずらりと並んでいたりする。
地面にも無造作に散らばっていたりもするが、一体これらは何の意味を表すのだろうか……。
――ネーデルの隣には、ぜーランディアがいたままである……――
『ラディバージスディグェイ……』
この異様な空間に、ゼーランディアもいたのである。
真横で静かに語りかけるが、この謎の世界も、ゼーランディアの言語もまるで意味が分からない。
これを理解出来るのは、やはりネーデルしか存在しないのだろうか。
(な……何企んでるのよ……こいつ……)
身体が衰弱している事も忘れ、赤い瞳を無理矢理ゼーランディアに向けながら、ネーデルは心中で震え上がる。
この不思議且つ、人間を滅ぼした後のような世界はやはりゼーランディアの意図だったのかもしれない。
β◆ι 赤い瞳は確かに映したような気がする…… ι◇β
◇ξ◇
霧が拡散するかのようにあっさりと消滅してしまったが……
『テェスデリーボ……』
ネーデルの隣に居続けていたゼーランディアはこの黄土色の地面が1つの特徴を築いている
いや、慣れていなければ非常に矛盾した展開となるだろう。
空間を呼び出したであろうゼーランディアは、この異次元の中で平然と右手をゆっくりと、低空で硬直した少女に伸ばした。
骨の右手が最終的に行き着いた場所は、ネーデルの背中である。
汗で激しく湿っているであろうその背中を触る感想は如何なるものか。
(こ……こいつら……本気なの……?)
ゼーランディアに何を言われたのか、それはネーデルにしか分からない。
赤い瞳が震えているが、何故そのような感情を選択したのかはネーデルが直接教えてくれなければ、絶対に分からない。
それでも弱々しく怖がるのでは無く、戦闘中に相応しい鋭い表情を崩していないのがまた健気だ。
熱の含んだ汗も冷えた汗も混ざった背中も、ゼーランディアの手が置かれている事は当然のように察知している。
疲れていようが、病魔に妨害されようが、神経は敏感なのだ。
―μ 頭に浮かぶのは、あの無数の頭蓋骨…… μ―
『ヅィダローァ』
まるで民家の役割でも果たしているかのように並びに並んだ要塞を一瞥するなり、
ゼーランディアは突然濃い緑に染まった不気味な空を見上げる。
―グォォォオオオォン……
空気が力強く放たれるような鈍い音が空から響いた事だけはネーデルでも理解する事が出来た。
しかし、ゼーランディアのように首を動かして空を見上げる事は出来ない。
1つだけ無意識に感じた事は、生物のような生々しさが伝わらなかった事かもしれない。
δδ 漆黒の巨大な球体が飛行しており……
空の光度が悪い為、仮に見上げられたとしても詳細な外観を捉える事は出来なかったはずだ。
もしこれが巨大でも良いから鳥類であれば、羽が見えるはずであるが、それが一切存在しない。
それとも、この世界には地球で言う生命体が存在しないのだろうか。
ただ、すぐ目の前にいる者を意識すれば、案外答はすぐに提示する事が出来るかもしれないが……。
(こいつらの世界……って……)
ネーデルの詳しい心情はここでは読み取るのは無理に近いだろう。
敵対者の言語が理解出来ない以上、第3者は言葉から漂う感情の想像すらする事が出来ない。
しかし、この空間が龍の悪霊に所有権がある事に薄々気付いているようだ。
今のゼーランディアの台詞を完全に解読される時が来れば、今まで分からなかった事も全て解明されてしまうだろう。
『シルドェアリ……』
ネーデルはそれしか聞き取る事が出来なかった。
相手の返答よりも、自然の世界から伝えられる奇妙な効果音の方が意識をそそられるからである。
漂う無色の風が非常に細かく弾けるような音を響かせている。しかし眠気を叩き潰す音量では無いにしろ、耳障りである。
ひょっとすればそこから走り出す事が出来れば耳障りな環境から脱出する事も出来るかもしれない。
しかし、金縛りは継続中である。
――ネーデルの目の前が揺らぎ始める……――
確かにネーデルは病魔に魘されている状態ではあるが、まだ意識は充分に保っている状態だ。
つまり、これは空間自体が意図的に歪み始めている証拠である。
それに、奇妙に白く染まり始めてもいるが……
κκ 地面も…… 空も…… 建造物も…… ◆ ◆ ◆
『ヴィイラネスペェト……』
白くなっていく空間に反響を小規模に轟かせながら、ネーデルの耳に届いていく。
染まる空間と照らし合わせると、今の光景はあまりにも不気味だ。
屍龍を
(何……する気よ……!? やめて……やめてよ……!!)
ネーデルはその場から走り出したい気分に襲われるが、身体は微塵も動かない。
身体の動きは拘束されているが、感情は柔軟なままだ。状況による変化だって掴み取る事は出来るものだ。
赤い瞳が明らかに怖がっているのがその証拠である。
――どんどん回りが白くなっていき……――
『ヴィッサー……リゲェン……』
合図なのだろうか……。
白色の背景に映り込むのは、
少女の周りをしつこく回旋し、半径率を縮めていく。
身体から流れていた汗が周りを
寒いからという1つの理由だけに限られた事では無いだろう。今ここで震え上がっているのは。
ε▼▼ε 黒霊は、体内侵入を開始する……
――そこには、痛みも苦しみも、苦痛も何も感じなかった
――まるで少女の身体を擦り抜けるかのように、抵抗無しで入っていく
――少女に否定をされても、それを受け付けないのが幽体なのだろうか
――いや、身体で直接異変を感じ取れないのが恐ろしい
――いつ、苦痛が襲い掛かってくるのか、準備すらする事が出来ないのだ
■■ ネーデルの瞳には、恐怖しか残っていなかった / OFFENSIVE SURVIVE ■■
(やめて……!! 何よこれ……!! いや……! 来ないで……!)
自分の中に黒い霧が入り込み、ネーデルの恐怖が見る見る内に高まっていく。
しかし、相変わらずその場から一歩も動く事は出来ない。
まだ宙に浮いているままなのだ。飛び込んでいる最中で動きを止められ続けているのだから。
ゼーランディアに言われたあの台詞が忘れられないのかもしれない。
白くなっていく背景が次は何を見せてくるのかも分からない。
現世に戻っているのかも分からない状況で、ただこれから襲い掛かる悪夢に怖がり叫ぶ事しか出来ない。
β― 真っ白の世界が、虚無なる思案を作り飛ばす…… ―β
δ― ネーデルは鬼哭の誘惑には負けなかったが…… ―δ
――空間に聞こえたその龍の声が数秒後の運命を変えてしまう……――
『マーチュリスコウェンヴィルウオァエント……』
理解不能な合図が全ての始まりであり、煉獄の重苦による支配だ。
もうこの純白な空間にゼーランディアの姿は無く……
■□ 異世界から、魔眼を輝黒に光らせ始める…… / THUNDER CLAIMING…… □■
(!!!!)
白の世界という、
この瞬間、背中に電撃を浴びせられたかのような僅かな痛みを覚えたが……
ρ◆ρ スイシーダタウンから離れた森林の中で…… ρ◆ρ
『うあぁああああああぁあぁあああ!!!!!!!!』
◆
◇
――スイシーダタウンのとある宿屋の一室では……――
「!」
夜中になり、物音1つ立つ事の無くなった静かな寝室で仰向けにベッドの中で眠っていたシヴァはその黄色く光る両目を開く。茶色の仮面のような顔、そしてその顔の隙間から覗いている両目は独特の印象を提供し、実際の人間が直接目を覚ました光景を見た場合、突然目元に光が灯ったような風に感じるだろう。
無言で、シヴァは上半身を起き上がらせ、ベッドと接している右側の壁に備えられた窓の外に顔を向ける。
(今誰かの悲鳴が聞こえたが……)
一体何を察知したのか。
普通の人間ならばまず聞こえなかったであろうその小さな音をシヴァは察知したのだ。既に深い眠りに着いていたはずであったシヴァの精神に1つの異変が訪れたのかもしれない。それは純粋な精神異常なんかでは無く、無関係では無い音が届いた事によって、反射的に目が覚めた、それだけの事だ。
当然のようにこの1つの部屋にはシヴァの姿しか無く、他の者達は別室で今睡眠を取っている。その彼ら、彼女らが今どうしているかを知る事はここでは出来ない。
不安しか残らなかったからか、ベッドから降り、部屋の出入り口のドアに向かって歩き出す。只ならぬ違和感が全身を支配していたのかもしれない。
―ガチャ……
暗くなった廊下に響くドアの音。あまりにも静か過ぎる場所では、日常的に気にならないような音もどこか怪しく鳴り響くものだ。それでもシヴァは管理局に属する存在だ。この程度の音でいちいち怖気付いたりはしない。
廊下の奥は暗闇に包まれ、まるでその奥の世界には何も存在しないかのような恐怖感を漂わせているのかもしれない。しかし、シヴァの目指す場所は、その奥の世界では無かった。とある1つの部屋である。
(まさかとは思うが……あいつ……)
今、シヴァはネーデルの部屋の前に立っていた。ドアノブに手を回し、激しい音を響かせないよう、ゆっくりと手前に引いた。
まるで初めからネーデルの異変に気付いていたかのようにも見える。他の者達が眠っている部屋には一切見向きもしていなかったのだ。それとも、あの悲鳴らしき音を放った張本人の名前がすぐに浮かんだのだろうか。
――青い髪の女の子が眠っていた寝室で……――
ベッドの上には誰もいない。
窓から照らされる月の光が、ベッドの上を鮮明に照らしている。
だが、ベッドの上には誰もいない。
(やっぱり……あいつの声か……)
その寝室にいるはずだった少女の姿が無いというその目の前の事実を、シヴァはゆっくりと受け止めた。決して騒がず、取り乱さず、寝室のドアを閉めるなり、宿の玄関へと、殆ど音を立てずに向かっていく。
◇―ββ 毒色に染まりし寂然の風声 ββ―◆
本来ならば、太陽の消え失せたその地に黙っていたであろう深い森林。
それはもう過去の話であり、現在は毒気に当てられ、無力な弱者が侵入出来ない絶望世界と化している。
無傷、不老、不死、再生、復元、復活、それらを
誰もいない夜風の下で、今日も悦楽に満ち溢れた暴界は笑い飛ばし続ける。
――φφ 薄暗くも、自然の香りを運ぶ針葉樹……
――ππ 力強さと材質の地味さを見せる太い幹……
――αα さてと、上から下への視点移動はもう終わりにしようか……
ωω 人間のように直立する屍の姿をした龍は地面の上で、遠方を凝視しているが……◆◆
『シャアリディクレンディファァ……』
森林の中で、遠くに向かってその不可思議な言語を言い放つが、一番意識すべき点は、ゼーランディアの背後である。
まるで何かが走り抜けたかのように、地面が円筒でも横倒しに設置したかのように円形上に抉れている。
それは木々の並ぶ地帯にも影響を与え、その抉られたラインに位置していた木々は、根ごと引き抜かれ、横倒しにされている。
土の地面に横転し切れず、被害を受けずに済んだ木々に引っかかっている樹もいくつか見えている。
砂埃も僅かに舞い上がっているのは、事が発生してすぐの様子が今の状況だからだろう。
――それは、ゼーランディアの後方に広がる風景である……――
――破壊状況は凄まじいが、被害者の姿は存在しない……――
――問題は、前方にあるはずだ……――
―ψ 逆に、前方に着目する事で、話が進むものだ…… ψ―
ゼーランディアの歩き出すその先には、この話の鍵を握る少女の姿がある。
実写で説明する事の出来なかった攻撃を受け、その後の姿を想像すると、心が痛むかもしれない。
だが、不思議な事に、ゼーランディアの進む方向に敷かれている地面には抉れた跡が1つも無い。
そこを目的地とする以上、無傷な前方向に目的の人物がいる事に疑いの余地は無いはずだ。
ネーデルが無事であるとはとても考えられないこの状況の中……
◇ 無事であるか、それとも瀕死か…… / WAKE THE PANG ◇
―ザッ……
―ザッ……
―ざッ……
―ザっ……
地面を歩く者の音が鳴っている。
骨の剥き出しになった
音が大きくなるという事は、それだけ距離が縮まっている事を意味する。
さあネーデルよ、すぐに立ち上がるのだ。そして、邪霊を司る屍龍に怒りの刃を通すのだ。
いつまで倒れているのだ。それでは本当に正しい道を切り開く事は出来ないぞ。
お前は少女でありながら、能力に優れた人間だ。お前ならば、不屈の精神を再び見せられるはずだ。
―υ 倒れているとは?
―ε ネーデルの身に何が起きている?
―σ 視界がぼやけ、力が入らず、更に頭痛が激しくなっていると書けば……
「うぐっ……あうっ……はぁ……はぁ……」
ネーデル自体は焦げていないし、焼けてもいないのに、黒のハッキリとした煙が、倒れる少女から放たれている。
考え方によっては黒のエネルギーが体内から抜け出していると言った方が正しかったりする。
仰向けのその姿からは、身体に力を込めている様子を連想する事が出来ず、敵に接近された時点で最期が決定するだろう。
汗が消える事は無く、傷も消えず、時間の経過で止血された傷跡も同じく消えない。
触手を斬り落とした際に脚付近に付着した黄色の体液もしつこく纏わり付いたままである。
苦しみから逃れる為に深く呼吸をしたくても、激しい頭痛や激痛による状態異常が呼吸すら激しく遮っている。
助け舟を差し出してくれる者が1人もいない空間で、時間だけが過ぎるだけである。
(どうしよ……いし……きが……)
赤い瞳を薄く開くが、疲労と頭痛の総攻撃により、視界が霞んでいた。
いつもならば鮮明に視覚で確認する事の出来る夜空の星々も、今はぼやけてしまい、普段の美しさを鑑賞する事も出来ない。
近寄ってきているであろうゼーランディアと、病状の悪化で震える身体のどちらに心配を意識するべきなのだろうか。
倒れていても、意識が正常な方向へ進む気分がせず、身体中の激痛と共に、寒気が全身を未だに激しく走り回り続けている。
立ち上がりたい気持ちはあると考えても、決して×印を付けられる事は無い。
何故なら、黒い悪魔によって、ネーデルの体力を吸い取られてしまったのだから、それ以外に考える必要は無い。
κκ ◆◆ 実は、あの悲鳴の中で…… / SCREAM VISION ◆◆ κκ
毒々しい
―ψ ここで、例の悲鳴が甲高く森林に伝えられたのだ…… ψ―
痺れさせながら、そのままネーデルから残り少ない体力を吸収する……
体力を吸い取り、後は少女がそのまま崩れ落ちるその瞬間も、無駄にしなかった……
真空波だろうか、少女の目の前で炸裂させ、少女を森林内へと吹き飛ばす……
計算されていたのだろうか。木々に激突せずに少女は最終的に地面へと落下するが……
衝撃に加え、地面を擦った痛みも身体のどこかには伝わっていただろう……
▲▲ 悲劇の瞬間は、これで終わりを告げてくれたのだ / THOROUGHLY ATTACK ▲▲
Fortunate sleep……
Midnight amusement……
Clear girls?
ββ 眠っていた少女がようやく覚醒し…… / NONPARTICIPATION γ◆◆
「ふあぁあ〜……どんぐらい寝てたんだろ……」
黄緑色をした長い髪を携えている少女、メイファは太い幹から伸びた同じく太い幹の上からようやく目を覚まし、上半身を持ち上げた。
水色の瞳を擦っているが、その先に見えるのは暗くなった森林だけである。
太陽が沈んでいればそれは当然のように明るい世界が映ってくれるはずは無い。
「あれ……? ゼーラン……ディア……様……? あ、そうだ、ネーデルはどうしたんだろ?」
目覚めた理由は何だろうか。
まだ覚醒し切っていない頭では、名前にしては長い部類に入る自分の仲間の名前を一度区切らせながら言い切るが、
ネーデルの事になった途端に完全に覚醒してしまう。
太い枝からは降りずに周辺を見渡すものの、目的の少女は立っていなかった。
「ああそっかぁ、今頃ゼーランディア様に叩きのめされてるとこかぁ。早くワタシも現場に向かわないとねぇ」
するとメイファは突然両手を握り合わせ、水色の瞳も閉じ、その両手を口元に近づけると同時にやや腰を丸め込む。
この瞬間だけ物凄く女の子らしい仕草なんかを取り始めていたメイファであるが、祈っている訳では無いだろう。
第一、何をどう祈るのだろうか。ネーデルの無事を祈っているとは考えられないし、ゼーランディアは祈られる程貧弱では無い。
座り込んでいたメイファの身体が小規模に光り出し、次の瞬間、現実世界の科学ではとても説明し切れない現象がそこで発生したのだ。
――突如、その場から姿を消したのだ……――
一般的に想像されるような小さな火の粉を小さく散らせ、綺麗に木の枝の上から姿を消す。
まるで火の粉に変身でもしたかのような超常現象である。
目的地へと向かう為に、その場から一度姿を消してしまったのだろうか。
== ζ Nadel's View ζ ==
(速く……しないと……)
高熱による激しい頭痛、疲労蓄積による運動機能の一時的な麻痺、過度の打撃による全身の激痛。
倒れていても刻々とゼーランディアは迫ってきている。
もしこれが飛竜であれば、
知能の異なる生態系が、ある意味でネーデルを生かし続けているのだろう。
『ステゥロガ……』
木々が薙ぎ倒された空間を背後に映しながら、ゼーランディアは倒れている目標に歩み寄っていく。
その筋肉組織や肌のまるで存在しない骨の両腕をよく見れば、僅かに握り締め、力強さを見せ付けている印象さえあるだろう。
次の仕事は、ネーデルのすぐ目の前にまで到達してからだ。
――正直、ネーデルは顔を持ち上げるだけで精一杯なのだ……――
ネーデルの両足が向いている方向に、屍の龍が存在している。
歩いてやって来ている事は理解出来るが、もう少女の視界は霞み始めている。
それでも、揺れる視界の中で、確かに何者かが近づいて来ているのは分かる。
―ビュウヴゥヴゥ……
非常に短い間隔で風の強弱が切り替わる不思議な風音がネーデルの耳へと届く。
深い意味を考える前に、またネーデルの視界の中で1つの変化が発生する。
反射的に、ネーデルの視線は夜空へと向けられていたのだが、その視界の中からネーデルとはまた別の少女の姿が現れたのだ。
υυ 前触れも無く、突然その姿が現れる……
ωω 空間の中に、その形がいきなり生成される……
ηη これは、瞬間移動の
μμ 高さがあった為に、濃い緑の服を纏った存在は、小規模落下を発動させる……
「よっと……」
その少女とは、メイファである。
力を失っている少女の真横に降り立ち、落下の反動で両膝を曲げるが、すぐに真っ直ぐ伸ばす。
メイファの目的も、ネーデルである。
(!! メイ……ファ……)
荒い呼吸をしていたネーデルからは、下から見上げたメイファの姿が見えている。
その呼吸の影響からか、直接その名前を出す事は出来ていなかった。
物々しい黒のニーソックスがネーデルの視界から最も近い位置に見えているが、正直、蹴撃でもしてこないか恐ろしいかもしれない。
――近くまで来たのだから、その後の行為は想像に難しくは無い……――
「ネーデル〜? あんたなんでそこで寝てんのよ〜?」
ネーデルのすぐ顔の左に立ち、当然のように視線を少しでも相手に合わせる為にしゃがみ込む事もせず、
両脚をピンと伸ばし、そして少しだけ開いた体勢を取っている所を見ると、自分が強い事をアピールしているようにも感じられる。
喋りかけている途中で気付いたのか、両手を細く引き締まった腰に当てた。
「うぅ、るっ……さい……わねぇ……はぁ……はぁ……」
嫌味にしか聞えてこなかったネーデルは霞み始めている視力でしっかりとメイファの誇っている顔を捉える。
角度の影響で、別に見る気も無いであろうメイファの短いタイトスカートの中までも見えてしまっている。
淡い赤をしているとか、そんな事は少女であるネーデルにはどうでもいい話だろう。
体力が残り少ないネーデルにとっては軽く言い返すだけでも大きな労力だ。
「『煩い』じゃないでしょ〜? とりあえずぅ〜、立ちっ……なさいよっ、ったくぅ」
抵抗するだけの力さえ残っていないであろうネーデルをからかうようにメイファは作り笑顔を見せ、
恐ろしい腕力を想像させるには無理がある細い右腕を地面にいるネーデルの胸元へと伸ばす。
そして、言葉が詰まってしまう程の力を加えながら強引にネーデルを立ち上がらせる。
「うっ……!」
首周辺に無理な力を加えられ、ネーデルは弱々しく苦しみを伝える声を放つが、メイファの右腕に逆らう事は出来なかった。
無理矢理立ち上がらせられ、突然の体勢の変化に合わせる為に震える両脚で何とか身体を支えるが、厳しかった。
意識さえも揺れ、滲む視界を何とか押さえ込む為に右手で汗塗れになった額を押さえ付ける。
両手からはもう白銀の爪は消え失せている。
真っ直ぐ立つ気力も残っておらず、深く呼吸を続けていなければ再び倒れてしまう状態である。
腰も前に向かってやや倒れているのが分かる。
「うわ〜もうこれ瀕死状態ってやつぅ〜? ねぇゼーランディア様ぁ、もう痛め付ける必要全く無いですよねぇ〜?」
ネーデルのすぐ左横に立っていたメイファは、馴れ馴れしく右腕をネーデルの肩に回す。
そして人差し指でこれまた馴れ馴れしく、ネーデルの痣だらけの頬を捩じるように強く刺した。
もうこれ以上押し出せない場所になると、今度はその場所でしつこく捩じり続けていた。
『ジュティカーラィベル』
既にメイファとネーデルの距離を縮めていたゼーランディアはその場に立ち尽くし、
2人の少女にしか分からないであろう言語を再び放つ。
それが肯定なのか、否定なのか、どちらだろう。
「あ、そうですかぁ? じゃあ後はワタシがこの
表情を明るくしたメイファは、捩じり回していた指を引くと同時に、他の使っていなかった指を全て揃え、
頬全体を掠らせ、そして指に付着した汗なんかを興味有りげに見つめている。
その右腕はまだネーデルの細い首に巻きついたままである。
「はぁ……はぁ……」
華奢なメイファの細い右腕を払い除けるより先に、自分自身の呼吸を整える事が優先であるようだ。
「っつうかネーデルさあ、こんな汗塗れになるまで普通歯向かう〜?」
もし異性であれば睨まれるであろう、この今右腕をネーデルに巻きつけている状態からようやく離れ、
上体を前に倒しながら荒い呼吸を延々と続けているネーデルの前に移動する。
メイファは身体を横に向け、右を向くような感じでネーデルの湿った青い服をまじまじと眺め続けている。
「そりゃ……歯向かう……わよ……」
真っ直ぐな返答しか、ネーデルは出来なかった。
何せ、今はただ疲れているだけでは無いのだから。
顔を僅かに持ち上げ、無理矢理にメイファと目を合わせようとする。
「なんでよ〜? ってそりゃあやっぱあれか……。ワタシらが嫌いだから、そうでしょ? じゃないとこんな薄着が滲むまで反発したりしないもんね〜」
メイファは一度ネーデルに背中を向けながら、自分達がその青い髪を持った少女から忌避されている事を自覚、確認する。
どうせ無防備な姿を見せたって、ネーデルに不意打ちをするだけの体力は今は無いはずだから、心配は無いだろう。
すると再び真正面から接近し、左手をネーデルの右肩に置き、そして右手の指をピンと伸ばすなり、ネーデルの胸へと当てる。
その触る対象の胴体が前に向かって倒れている為、右手も自然と下から突き上げるような形を取る。
まるで膨らみの無い胸ではあるが、それでも膨らみが残っている事には変わりないのだから、それなりの柔らかさは伝わっているはずだ。
「どうでも……いいけど……胸弄くり……回すの……やめてっつの……!!」
同姓であっても嫌がらせのように触られるのは癇に障るだろうし、そもそも普通はしつこく触るような部分では無い。
相手が好きだとか嫌いだとかの感情よりも前に、奇妙にむず痒さも覚えさせる相手の行動に腹が立ったのだ。
身体に止まった蝿を払い落とすように、非常に乱暴に右腕を薙ぎ、メイファの腕に痛撃を伝える。
本来は他人の痛みを喜ぶような性格では無いであろうネーデルだが、相手は憎むべき相手である。
そして、相手が腕を痛がっている事に別に喜ぶつもりも無い。
「相当弱っちゃってるわねぇ。毒蛇にやられた
それは気持ちで堪えているのか、それとも本当に痛くなかったのだろうか。
衝撃を加えられた右手を振る動作もせず、ゆっくりと下ろしながら、野生に生きる動物同士の小さな話をメイファはし始める。
自分の、その黒い手袋で覆われた右手をもう1つの左手で撫でながら、妙に可愛い笑顔を浮かべて顔を右へと傾ける。
その反動で揺れた黄緑のポニーテールは確かに反社会的な性欲を持つ中年男性が持つ事は無いだろうし、
性別によって触る事が出来るモノの違いもひょっとしたらこの世界にはあるのかもしれない。
「あんたにだけは……触られたくないっての……!」
それでもネーデルは自分の身体を好き勝手に触らせる事を認めなかった。
一瞬だけ、メイファの姿が二重に映ったが、それはネーデルの目が霞んでいた証拠だ。
この痛みに支配された世界から一秒でも早く、脱出したい所だ。
「ワタシに暴力働いていいの〜? ワタシが今本気出したらあんた多分死ぬかもよ〜?」
その台詞が事実なら、払い除けられた時の痛みがまだ右手に残っていたようだ。
手袋を超えてある程度の痛みが走っていたらしいメイファであるが、それはそれでまた楽しそうな表情を浮かべている。
正常なネーデルと戦っても負ける可能性が非常に高いが、今ならば自分が勝てると思い込んでいるからかもしれない。
「うぅる……さいっわねぇ……」
病弱と化した自分に都合の良い事を考えているメイファに苛立ちを覚えながらも、
実際には何も反撃を加える事の出来ない心境をネーデルは大きく悔やんでいる。
メイファは矢鱈と歩き回ったり、ネーデルを触ったりしているというのに、ネーデルはただ深呼吸を続けているだけである。
それも、今にも崩れ落ちそうな上半身を必死で支え続けながら。
「なんか頭の悪そうな返事ねぇ……」
もっと凝った返答を期待していたのか、メイファはやや秀美な水色の瞳を細めながらネーデルとは別の方向に何となく視線を渡す。
力の抜けた笑い声でも放とうとしていたらしいが、とりあえず視線はネーデルへと戻されたのだが……
――ふと下に視線を落とした時に、興味をそそるものが映り込む……――
「……ってうぅわっ!」
いくらか距離を取っていたせいで、ネーデルの脚に着目する事が出来てしまったのだろう。
メイファのその生意気そうな声色の悲鳴が可愛いとかは、少なくともネーデルは考えもしない。
因みに、メイファが嫌味にも近い、わざとのような悲鳴を上げた理由としては、ネーデルの両脚に付着していた液体である。
――ネーデルは軽く眉を
「何よその脚から垂れてる黄色いのぉ!? まぁさかあんたオシッコ漏らしたの〜? 15にもなって恥ぁっずかしいわね〜」
太陽が沈んで暗いとは言え、メイファはその黄色く染まった謎の液体を見逃さず、凝視しながら再びネーデルへと近づいていく。
本当は気持ち悪がっているのだろうが、その感情と行動がまるで一致しておらず、また右腕を下に向かって伸ばし始める。
右手が狙ったものは、その黄色の液体であり、ネーデルの右の太腿の内側を下から滑らせながら触っていく。
太腿を触るだけでも破廉恥な行為と考える者が多数だと思われるが、メイファはわざとらしくスカートの中にまで手を突っ込んでいる。
手袋によって多少肌触りを妨害されているとは言え、スカート内部の最終地点にまで辿り着いた事は認識出来ていただろう。
しかし、脚の付け根で粘っているとその触られている少女に腕を掴まれた。
「だから……触るなって……! これは……触手の返り血よ……!」
ネーデルは掴んだ相手の右腕を投げ飛ばすように突き飛ばした。メイファ自身もネーデルから後退させられる。
性的に問題のある行為を続けられるのも、ネーデルには耐え難い仕打ちであるはずだ。
股間部分を覆う布の内側に指を入れられそうになっていたから、それを防ぐ意味でもあったのだ。
そして、流石に本当に失禁したのだと勘違いされては堪らない為、あの触手のものであると短く答えた。
「え? そう? あ、ホントだ、確かに血ねぇ。まあ黄色いけどね。っつうかねえ、ホントにオシッコだったとしてワタシがホントに触るとでも思った〜? 排泄物好き好んで触る奴って普通だったらヘンタイ……っつうか異常なフェチよねぇ〜」
言われてすぐに右手を確認するメイファだが、実際に触手が出血をした所を目撃した事があったのだろうか。
粘りとかの感触も確かめず、見ただけで瞬時にそれが小便では無いと察知している辺り、彼女の生活環境がよく分からない。
両手を持ち上げながらベラベラと喋り続けているメイファであるが、異性であった場合、
確実に女の子であるネーデルから一生嫌われてしまうか、或いはもっと別の何かが起こるかどれかだろう。
「あんたって……相変わらず……妙な分野で……張り切る……のねぇ……」
怒る余裕すら無い精神状態で、ネーデルはメイファの嗜好に対して悪口に似たものを飛ばしてやった。
どうしてそれを好んでいるのかを考える気には到底なれなかった。
「妙、っつうか普通に考えてそうじゃないの〜? オシッコだらけできったなくなった脚普通撫で回したりする〜? そんなもん気持ち悪くて普通触ったりしないでしょ〜? あぁあんただったら触るんだぁへぇ〜」
距離を取ったり離したりと、メイファもある意味面倒な行動を続けているが、今は喋りながらネーデルの隣にやって来ている。
しかし、今度は胸を触ってきたり、スカートの中に手を入れたりはせず、ネーデルの左肩に寄りかかっているだけだ。
だが、疲れ切っているネーデルにとっては無駄な負担である事に変わりは無い。
「ってかその話……もう……やめて……くれる……!? あんたの……そういうとこ……ホント……不愉快……!」
少女同士でも、そして女の子であってもお世辞にも綺麗とは言えないものの話をされ続けても愉快になる事は無い。
友人同士のふざけ合いでは無いこの場所で、ネーデルは力を振り絞り、メイファを両手で押し退ける。
最も、ネーデルがそれで力尽きるような事は無かったが。
「あっそぉ……。あ、そうそう、話は戻すんだけどさぁ、あんたいい加減戻ってきたら? その方が絶対あんたのためになるから」
何故か距離を無理矢理取らされたメイファは残念そうにネーデルの身体を眺めると、表情を変えてネーデルに問いかける。
だが、その話題になるなり、その変えた表情にダルさが表れ始めた。
腕を組み、そして溜息まで零したのだ。
「それ……何回……聞いてる……のよ……? もう……答えるの……飽きたんだけど……」
きっと聞き飽きた命令なのだろうが、ネーデルはそれを否定する以外考える気にはならなかった。
それにしてもしつこい頭痛がまた痛みのレベルを増し、額を押さえる右手の力がまた強くなる。
「強がるのも勝手だけど〜、こっちがもうちょっとマジになったら、あんた死ぬんじゃない? 死にたいの? そんな15の内にさ〜」
わざと相手を脅し立てるように、メイファは右手の上に青く光る炎を灯らせる。
言う通りにしなければ、この炎をぶつけるぞとでも態度で言っているようなものである。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
何とか青い前髪の隙間から、青い不気味な炎を凝視するネーデルであるが、身体が前に倒れている姿勢は解除されない。
寒気が走り、そして意識さえも歪み、横になりたくてもそれは叶わぬ願いなのだ。
「なんで言い返して来ないのよ〜? あ、そっかぁ、もう追い詰められてるから対抗手段まるで思いつかないっていうあれ? じゃあ降参しちゃいなさいよ〜。今なら優しく連行で許してあげるわよ〜」
メイファは右手の上にある青い炎を握り潰して消滅させ、手元から白い煙を立ち上がらせる。
汗なんか一滴も垂らしていないメイファとは対照的過ぎるネーデルを見ていると、背後から上層部に該当するであろう者の声が渡される。
『バァーメトゥーレスカント……』
ゼーランディアである。
3本しか無い指の1本をネーデルに突き付けながら、深い意味なのか浅い意味なのか判別出来ない言葉を渡す。
「えっ?」
何を言われたのか、だが、メイファのその理由を明らかには出来ないだろう。
振り向いた姿を見ても、それは分からない。
「……何……よ……?」
ネーデルの態度も気になる所である。
だが、頭痛と寒気がより一層強く圧し掛かってきたのか、右手が濡れた額に再び強く押し当てられる。
『ガァデロアマァフィレーゾン……』
ゼーランディアの右に寄りかかり始めるメイファであるが、メイファには気も向けず、
暗夜の世界で目立った光を見せた深青の両眼をじっと、ネーデルに向け続ける。
「そうやって……わたしを引き込もうったって……無駄……よ……」
きっとネーデルに戻る気分にさせるような事をゼーランディアは言ったのかもしれない。
それでもネーデルの気持ちは全く変わる事が無かったが、突如押し寄せるような激痛が襲い掛かり、
傍らに生えていた大木に吸い込まれるように寄りかかる。
左肩をやや強く打ち付けたが、そちらの痛みよりも、破裂するような激しい頭痛の方が強かったのだろう。
左手は大木に当てられているが、右手は目元も同時に覆いながら額を押さえ、両脚の関節が曲がり始めている。
もう少し力を抜けば、擦り傷だらけの膝が地面に接するだろう。
『ホルビィタイスリベイチアルィ……』
一歩、また一歩とゼーランディアがネーデルに近寄り始める。
しかし、ネーデルは相手の異次元を感じさせる言葉しか聞き取っておらず、視覚を使ってはいない。
「いや……それは……はぁ……はぁ……」
ネーデルの何か秘密に関わるような話でもされたのだろうか。
言い返す言葉に迷いながら、何とか背筋を伸ばそうとするが、弱った身体でそれは叶わなかった。
うっすらと赤い瞳を右手の中で開くが、視界がぼやけている事に薄々気付く。
『ジャッパソゥロータイャブィ……』
進む過程でメイファから距離を離していたゼーランディアは両眼の光をより強くした後に、
まるでライトのようにネーデルの全身を照らす。
その光自体には害は無いようであるが、普通に見られるよりも特別に力を入れて見ているようでどこか不快になる。
照らされている場所から離れたい気持ちにもなるが、両脚が言う事を聞いてくれない。
「煩い……わねぇ……。それ以上……やめてくれる!?」
まだ気に障る事を言われていたのかもしれない。
その場から一歩すら踏み込む事も叶わず、血でやや赤く染まった白い歯を食い縛り、屍龍と目を合わせる。
『ティメスロピートメルメィガード……』
ゼーランディアは決してメイファのように、奇妙な性欲を爆発させるつもりは一切無いだろう。
弱っているネーデルの間近にまで歩み寄るなり、その人間世界で考えれば異常な程の高さのある身長で、
しゃがみ込みながらネーデルの細い顎を右手で下から押し上げる。
強引に真正面から視線を合わせようと行動をしているのだろうか。
それでも片膝を地面に落としてやっと視線がネーデルと同じぐらいになるのがまた凄まじいだろう。
「嫌……よ……。こっちで……生きるって……もう……決めてるんだから……」
ゼーランディアに接近され、少しだけ今までとまた違う危機感を感じたのだろうか。
ネーデルは骨の腕を右手で乱暴に払い除け、そして樹に当てていた左手すらも自分の身体へと引き寄せる。
いつまでも前屈みになって深呼吸を続けている訳にもいかないと悟り、
無謀にも背筋を無理矢理引き伸ばし、顔も持ち上げた事により、その無理をしている表情も鮮明となる。
青い前髪が僅かに額を隠している程度で、わざと怒りに近い表情を作り上げる事で精神力を保っているのがよく見える。
両手もガタガタと震わせながら、強く握り締めているが、これも崩れ落ちそうな身体を支える為の踏ん張りだろう。
「な〜にが『こっちで生きる』……よ? もうちょっと自分の成り行きっての考えた方いいんじゃない? 絶対失敗するって、あいつらは人間なんだしさぁ」
まるでネーデルのその彼女なりの度胸を馬鹿にするかのように、
濃い緑をした上着のそれぞれのポケットに両手を浅く突っ込む。
親指を除いた4本の指を入れる形で、既にネーデルの近くに立っていたゼーランディアの隣に進み、ネーデルと目を合わせる。
「うる……っさいわねぇ!! わたしだって……皆と同じなの……よ!! あんたが……勝手に……差別……してる……だけよ……!」
しかし、ネーデルだってどう見ても他の人間と変わらぬ姿をしているだろう。
それなのにメイファはまるで目の前の少女が全く違う世界の生き物であるかのような言い分を飛ばしている。
外見上は人間であるはずのネーデルも、まるで図星を突かれたような対応を見せている。
背筋を伸ばして堂々とその姿を晒しているが、確実に無理をしているだろう。
「随分元気ね〜。ホントはまだ体力余裕に残ってんじゃな〜い? それよりさっさと素直になっちゃったらぁ?」
背筋を伸ばしたネーデルの身長と比較すると、メイファの身長もほぼ同じ程度ではあるが、
厳重な区別をするならば、メイファの方が僅かに高い値を保持している。
メイファも先ほどまでは視線を下に向けながらネーデルと対話をしていたのだが、
ここに来てようやく同じ視線で話す事が出来た為、ひょっとしたら何か気に変化さえ訪れたかもしれない。
――
「あんたはもう1回しか――」
「それ以上……喋……るな!!」
今にも倒れてしまうと思わせるように身体を震わせているネーデルに接近したメイファは、
その僅かな身長差を使い、上から見下ろすような視線でネーデルを嫌らしく見つめるが、
そこにネーデルの握った拳による反撃がメイファに加えられる。
「ったっ!!」
狙いが甘かったのか、或いは悪かったのか、メイファの程よい大きさの胸の中心に掠るようにぶつかった。
打撃らしい打撃を期待出来ない雰囲気ではあるが、痛覚が反応する程の力だったからか、メイファの小さい悲鳴が上がる。
左手で胸元を押さえながら憎悪の感情をネーデルに突きつける。
「不快に……なるのよ……それ……。はぁ……はぁ……もし……わたしが正常……だったら……」
メイファの話を聞くに、一度しかもう特定の何かを行う事が出来ないのかもしれない。
或いはまだその台詞には続きがあったのかも分からないが、ネーデルにとってはただの憎悪を作り出す塊でしか無い。
眠気だって抜けてくれはしない。そして、今まで加えられた打撃による打撲や痣だって染み付いている。
同じ年頃の少女に対する怒りだけが、今はネーデルを支える燃料となっている。
頭の中で、メイファを拳で黙らせている様子を想像しているのだろうか。
「殴り倒す……とか言うつもりだった? バカじゃないのあんた? いい加減負け惜しみ言うの辞めて大人しく来なさい……ってこれ何百回言ったんだろうねぇワタシ達」
ポケットに両手を入れたまま、メイファはにやにやしながら面倒そうに溜息を吐く。
確かにこの強制的な指令は何度か出していた事だろう。ある意味で、ネーデルは頑固なのだろうか。
そして、メイファはまるでネーデルを恐れておらず、今の時点では力関係が相手より上だと考えている事だ。
「ホントは、もう眠たくてベッドに潜りたいんじゃない? あんたってこんなに胸平べったいくせに気力だけは無駄にデッカイのよねぇ〜。胸も
今考え直せば、普通の人間であればもう子供であっても大人であっても睡眠に入っている時間帯だろう。
突然それを意識したのだろうか、しかしそれでも素直に睡眠欲を果たさせようとはしないのは確実である。
そして、しつこいスキンシップも収まる事を知らないようだ。
――両手がネーデルに迫り……――
「だから……触るな……!! 気持ち悪い……わねぇ!!」
メイファの両手がまた煩く、ネーデルの青い服を内側から小規模に押し出している胸に触れてきたのだ。
ただ触っただけでは飽き足らず、5本キッチリと揃った指達を内部へと曲げていったのだ。
当然そうなれば膨らんだ部分が掴まれる形になるが、それがネーデルの怒りの声を出す引き金となった。
また拳で反発してやろうと考えていた可能性もあるが、咄嗟の反応であった為、ただ払い除ける程度で終わる。
結構胸を張った体勢であった為、相手に略万全な状態で感触を覚えられてしまったかもしれない。
「だってぇ、ホントの事じゃん? あ、それとさ〜実はね? ワタシも結構眠いんだけど」
怒るネーデルを馬鹿にしたいからか、腹を震わす程度の規模で笑いながら先程少女の小さい山を掴んだ両手を開いたり握ったりする。
奇妙な性欲を思わせるある意味では変な人間であるが、一瞬メイファにも眠気が走るのを感じ、話の路線をいきなり変えようとし出す。
「さっきから……わたしの身体……弄くり……回したり……腹立つ……事……言って……きたり……」
その路線変更には反応すらせず、ネーデルは自分の胸を右手で払いながら、恐ろしい目つきでメイファを凝視する。
触られた際の感触を取り払う意識で手を動かしているのだろうが、自分の手に伝わる感触には何も感じるものが無い。
メイファは何が良くて触ってくるのか、そこら辺の理解が出来なかった。
「何よ?」
どうしても言いたい物を持っていると察知したメイファは、小さい鼻で笑いながら首を軽く傾げる。
それでも、メイファの直接的な行為に対する反論や文句に類するものとして考えているのがメイファであった。
どうせ好きな時に黙らせられると知っているからか、偉そうに左手を腰に当てる。
「折角だから……わたしからも……言って……あげよう……か……?」
感情を抑える限界にでも達してしまったのか、メイファに本気の何かを突きつける意味で、
ネーデルは上昇中の体温の中で上半身を前のめりにさせる事も無く、宣言なんかを言い渡す。
左手で、頬を流れた熱を帯びた汗を拭き取った。
「何……よ? なんか言えるようなものでも持ってるつもり?」
一瞬だけメイファの細く整った眉が揺れたが、すぐにそのいつもの生意気そうな態度を取り戻し、腕を組み始める。
あまり弱い部分を見せたくない一心もそこに有ったかもしれない。
「強がって……られるのも……今の……うちかもよ……」
ネーデルは赤い瞳でメイファを凝視し、絶対に視界から外そうとしなかった。
「はぁ? あんた何言ってんの? あんまり偉そうに強がってたら蹴り飛ばして転ばしてやるわよ? そしたら多分パンツ丸見えにな――」
「あんたってさぁ、昔やられたんだってねぇ!?」
メイファの破廉恥紛いな言い分を一切無視し、ネーデルはまるで相手の弱みでも握ったかのような笑みを無理矢理作り出す。
強い熱を帯びていそうな吐息を出しながら、一歩だけ前に踏み込んだ。
――覚悟を決め、何か大声で叫び散らしたのだが……――
空間に響く声という声が全て無音と化する。
不思議な感覚であるが、確かに少女の口は動いているのに、放たれているはずの声が聞えない……
ネーデルの表情は怒りと誇りを混ぜたそれであった。
逆に、メイファは悲しみと恥辱に襲われていたが……
口の動きだけは非常に鮮明だった。
意識的に声が聞えなくとも、それは上に大きく開いたり、横に開いたり、
雪白な歯がチラチラと覗かれたりと、相手に何かを伝えている事は間違い無い。
白い肌を光らせている汗も今は体力の消耗を意味するだけのものでは無い。
まるでネーデルの緊張感を物体化したかのようだ。
ゼーランディアの魔眼は、未来予知でもしていたのか、困惑の色を見せていたが……
―▲ψψ メイファの脳裏に何かが蘇る……
とある室内のベッドで横になる人間……
そして主に上半身に大量の白い包帯が分厚く巻かれており……
所で、頭部の方はどうなっていたのだろうか……?
ベッドの周りには、白衣の人間が大量に手を動かしていたが……
――停止していた聴覚が復活し、声が鮮明に聞え始めるが……――
「どう? 散々わたしにちょっかいかけてきた後に受けた報復は……!! はぁ……はぁ……」
ネーデルに映るメイファの姿は、弱々しさを感じさせるそれだった。
何を言われたのか、メイファは軽く俯いてしまい、ネーデルと顔を合わせようとしない。
しかし、ネーデルの体調がまた悪化したのだろうか、前のめりに倒れそうになってしまう。
すぐに右脚を踏み込ませ、留まったものの、荒い呼吸が喉の奥から這い上がってくる。
(ヤバッ……。また来たかも……!!)
激しい頭痛に加え、今度は目も回り始めたのだ。
頭の中に奇妙な涼しさが走り、身体の異常をまた突き付けられる。
両手で額を非常に強く押さえ込み、意識が崩壊しないように耐え込んだ。
「なんで……言い返して……来ないのよ? よっぽど……ショック……だった?」
寒さによる身体の震えがまた倍増し、真冬と勘違いしてしまう程の寒気が全身を走る。
それでもネーデルは耐え続け、返答をしてこないメイファを弱った瞳でずっと見続けていた。
ゼーランディアの姿は眼中には入っていなかった。
――不気味に、木々の葉が風でぶつかり合う音を響かせる……――
「まぁ……いいんじゃない? わたしの胸……とか……下半……身とか……触ってきたり……さぁ……」
寒気もあっと言う間に尋常では無い程の寒さに低下し、両腕で弱々しく自分自身の身体を包み込む。
それぞれの手が青い服の腰の辺りに触れるが、その服がもう激しく湿っているのが分かるだろう。
汗で身体の表面が熱くなっているはずなのに、とても寒い。
――大きく伸びた脚に直接触れる風が、不快に冷たかった……――
「あんたって……結局……触手達と……同類……よね……」
メイファの行動を思い出すと、自然とゼーランディアの呼び出していた触手を思い出す。
別に触手達が自分のスカートの中を狙おうとしていた理由とかを考えるつもりにはならない。
ネーデルはただ寒さに震えながら立っているだけで精一杯なのだ。
これを言われてメイファは何を思うのだろうか。
――少女と触手が同じ扱いされるのは、どうなのだろうか?――
「なんで……下半身に興味持ってるかなんて……わたしには……どうでもいい……けど……」
いつまで自分1人で喋っているのだろうかと、徐々に思い始めるネーデルだが、言いたい事はまだ残っているようだ。
一瞬、自分自身の身体からあまり愉快とは言えないような匂いを感じたが、いちいち考える事をしなかった。
服が薄いし、意外と腋等の露出があるから、匂いが伝わりやすいといえばそうなのかもしれない。
――冷たい風は、涼しさを超越し、肌寒さを言い渡し続ける……――
「あんたは……大好きなのよねぇ? 変な……場所が……」
何だか身体中に絞め付けられるような痛みが走ってくる。
今まで蓄積された打撃の後遺症とはまた違う感覚である。
恐らく、病魔が身体の至る場所から悲鳴を上げさせているのだろう。
――息苦しさも覚え始めるが……――
「だけど……清々……したわよ……。よくもわたしの……事……触って……くれたわね……」
格好でも付けてやろうと、弱った身体に鞭打ちながら青色の前髪を右手で払い除けて見せる。
付着していた汗が自分のものであると分かっていながらも、心地良い気分にはなれなかった。
直接拳で相手を殴るだけの体力が残っていない今、そのとある発言でも充分な仕返しだと実感しているのだ。
しかし、その後の事は考えていたのだろうか。
「1人じゃ……何も……出来ない……くせして……」
寒気の中に混じり、再び目が回り始めてしまう。
しかし、ネーデルの表情にはうっすらと笑みが浮かばれている。
勝ったとでも思っているのだろうか。
だが、ネーデルはもう一撃すらも耐えられる様子では無い。
――小声の返答がそこに来る……――
「――消せよ……」
ようやくメイファの、返答かそう捉えざるを得ない言葉がやってきたのだが、小声であったせいでまともに聞えなかった。
黄緑の前髪が水色の瞳を隠しているせいで、表情と声の大きさが比例しているように見えなくもなかった。
「ん? 今なんて……言ったのよ?」
やっと来たメイファの言葉ではあったが、ネーデルはまたそれに対しても言い返してやろうと思っていたのか、
呼吸のリズムが一瞬崩れてしまったものの、すぐに相手に向かって赤い瞳を細めて言った。
しかし、覚悟の準備は出来ていたのだろうか?
――メイファは顔を上げたのだ。前髪の裏の瞳が相手に見られる……――
水色の瞳には、その色に似た色の涙がうっすらと浮かんでいたのだ。
涙は感情を明確に表す為の1つの基準でもある以上、メイファの身に何が起きたのかを予想させる素材となる可能性がある。
敵対者にその感情の変化を不可抗力な状況で見せ付ける状態で、両手をゆっくりと、そして力強く握り始める。
――怒りのメッセージも添えながら……――
「今ほざいた事……全部……」
1つ1つの単語に強みが込められており、メイファの両手もそれに応えていた。
脆い物体であれば瞬時に砕け散ると思われる程強く、そして硬い拳が作られていたのだ。
最後の部分に位置していた言葉を言い切ったと同時に、またメイファの特殊な能力らしき現象がそこで発生する。
―ブゥン……
■◆ 空間が左右に引き千切られるかのように、少女も一瞬で姿を消してしまう…… / ELECTRON TELEPORT? ◆■
あっと言う間にメイファの姿が無くなり、ネーデルも声を一切上げずにその様子に驚愕する。
相手は姿を瞬時に消す事も出来るし、逆に表す事だって容易なのだ。
姿が見えない相手に対してどのように対策を練ればいいのだろうか。
しかも、今のネーデルは身体が不自由なのだから。
――悪魔が降り立つ時間はもうそこに……――
――メイファの言い残した言葉を覚えているか……――
視界が揺れるその中で、ネーデルは確かに自分の目の前に何かが現れた事だけは察知した。
しかし、相当低い部分に出てきた上に、視線を下ろす為の余裕か、或いは体力が無かったのかもしれない。
だから、目で確認する事が出来なかったのは確かだ。
――その後に響いたものが2つある……――
υυ 殴撃音と、少女の怒鳴り声が…… εε
「取り消せてめぇええ!!!!!」
■ωω■ ネーデルに、
≪≪ Upper-cut is scent of wound…… ≫≫