Fascination N−D−File
恐怖の館

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田代まさし(本名・田代政)、1972年、東京の工業高校へ入学した。田代はツッパリであったが、ある日、同じツッパリで、尚且つ同じ高校だった鈴木雅之と意気投合し、親友同士となった。恐らくきっかけは互いにソウルミュージックが好きだった事なのだろうか。田代は両親の離婚の影響でグレていたのだが、鈴木の家で夕食を食べさせてもらったりと、可愛がられるのだった。しかし、高校生活は非常に荒れており、バイクの乗り回し、夜遊び、喧嘩と、警察の世話になる事は珍しくは無かった。成績も下から2番だったと言う。

鈴木は高校を中退、父親が経営する工場で働きながら、地元の幼馴染とコーラスやダンスの練習をしていた。仲間達は当初は10人、皆で話し合った結果、鈴木がリード、桑野がトランペット、そして田代はバリトンボーカル等と、どんどん役が決まり、そして、メンバーの名前は『シャネルズ』となった。

尚、田代は高校を卒業した頃、父親に髪型の事で怒られ、殴られたが、溜まりかねた田代は父親に拳で反撃。父親は歯を折って泣き出した。その時の父親が小さく見えたと言う。そして田代はすぐに家を飛び出し、ガソリンスタンドやトラックの運転手等をして生計を立てながら鈴木達と音楽活動を続けていた。

『シャネルズ』は数々のアマチュアコンテストで活躍。そして、1980年、遂にデビュー曲を発売。曲名は『ランナウェイ』で、突然の大ヒットを叩き出し、一躍人気者となった。その後も数々のヒットを飛ばし、メンバーの名前も化粧品のCMの『シャネル』と似てるとの都合で『ラッツ&スター』に改名。英語に直すと『RATS&STAR』で、下から読んでも同じ読み方になると言う田代のかつてのギャグらしい名称であった。

改名後もヒット曲を連発し、1985年頃からは田代は単独でバラエティ番組に出演するようになった。他にも多くのCM出演や司会、著書の出版、ソロシングル、ゲーム発売、タレントショップ『マーシーズ』の開店、そして映画の出演や監督業と、実に様々な活動で人気の階段を駆け上がったのだった。

しかし、裏では失敗に対する恐れや客に受けなかった事に対する怯え等の重圧に押され、それから開放される為にマリファナと覚醒剤を使用する。それは後の法廷で1991年頃にやっていたと判明。このプレッシャーと薬は田代の精神を蝕んでいく・・・。

そして、2000年9月24日、田代にとって運命の崩壊とも言える日が訪れた。東急東横線都立大学駅構内、田代はバッグの中に家庭用ビデオカメラを忍ばせ、女子学生のスカートの中を盗撮。その時、田代は彼の不審な動きに途惑ったある人が通報した警察によって連行された。当然バッグの中からはビデオカメラが発見され、その中には先ほどの女子学生の下着がはっきりと映っていたのだった。
その駅はマニアにも人気のある盗撮し易いしポットであった。それを知っての犯行だったのだろうか。

その後田代は東京都迷惑防止条例違反で書類送検された。その時田代は趣味でギャグビデオの一環として映像を撮影していたと供述。ダジャレの映像を撮影しており、「耳にタコができる」に引っ掛けて「ミニにタコができる」と言うネタを作っていたのだと言う。しかし、あの場を考えるとそれは苦しすぎる言い訳だった。スタッフからは悪意は無いとしていつものダジャレで押し切るように言われる。

その後田代はしばらくの間、芸能活動を自粛した。まだ最初の犯行であり、盗撮の常習者とも言えない訳であり、東京簡裁が出した略式命令は罰金5万円であった。田代は週3日、都内の老人介護施設でボランティアを始めた。

そして、2001年6月、田代は復帰を果たした。復帰会見は田代単独で行う為、失敗は許されなかった。そして田代は再び芸能界に帰ってきたのだった。いつものようにバラエティ番組に出演しては、視聴者を楽しませていた。

しかし、以前の事件がきっかけなのだろうか、以前と比べて精彩を欠いてしまっていた。普段は真面目であり、腰の低い良い人だと周りからは評判であったが。だが、しばらく経過する内に昔の活気が戻っていく。しかし、再び田代は絶望の淵に立たされる事となる。

2001年12月9日、田代はある民家の男風呂をビデオカメラで盗撮。しかし覗かれた男本人に捕まれ、そして、逃げる際に現場付近に捨てたビデオカメラも回収された。田代は軽犯罪法違反容疑現行犯逮捕された。この事件は前回と同様、世間を唖然とさせるのだった。そして、その3日後の話・・・。

取調室で田代は自宅が家宅捜索される事を聞く。今回の犯罪は微罪ではあったが、あの時捨てたビデオカメラ、田代は盗撮の常習犯である可能性がある為にテープを捜そうとしていたのだ。しかし、これがきっかけで田代にとって回りに知られてはならない秘密までもが明らかになる事になった。

家宅捜索の際に例の覚醒剤が見つかり、遂に完全に追い詰められる。ハワイに行った時に好奇心から遂手を出してしまったと本人は供述。しかし、前回の盗撮の際に出来た借金によって重荷となってそれから解放されたいが為に覚醒剤を使ったのだと言う。しかし、借金があるのに購入をするとは・・・。因みに13グラムで54万円だと言う。多い時には3日に一度使用するほどだったようだ。まさか、男風呂の盗撮と言う極めて趣味の悪い事をしてこのようになってしまうとは・・・田代はタイミングが悪過ぎたのだ。

そして、同年12月12日、遂に田代が所属していた芸能事務所は彼の解雇を発表した。これにより、遂に田代の芸能人としての命運は絶たれた。田代は先輩、後輩から絶縁された。

そして新春かくし芸大会等に収録された田代のシーンは全てカットされ、数々の収録済み番組が白紙になる事によって事務所は田代に8000万円の賠償金を請求した。そして、支払いきれなくなった田代は自宅を売却する破目になった。栄光から借金へと変貌した悲しい歴史である。

そして、2002年2月、東京地裁、その緊迫した空気の中で田代は緊張のあまり、呂律も回らなかったと言う。全身が震え上がり、遂には裁判官に「芸能人には向いていないのでは?」とまで言われる始末だった。

田代は2月8日、覚醒剤取締法違反懲役2年・執行猶予3年の有罪判決を受けた。

テレビ出演の無くなった田代は健康センターやライブハウスのトークショーやパチンコ店の一日店長等で生計を立てた。また、逮捕後はVシネマの監督業にも励んだ。

Vシネマの発表で久々に公の場に現れた田代であったが、ここで芸能界復帰は無いと主張した。それでも芸能界復帰の噂が立ったり、インターネット上で弄られたりはしてきたが、田代は復帰を否定。

だが、判決から2年4ヶ月後、2004年6月、Uターン禁止区域で田代はUターンする。バイクと衝突事故を起こし、道路交通法違反業務上過失致傷書類送検された。この時、田代に代わって鈴木雅之が謝罪した。

そして更に3ヶ月後、路上に止まっていた田代の車に巡回中の警察官が職務質問をしてきた。その際に車内を調べられ、内部からは刃渡り8センチのナイフが出てくる。銃刀法違反だ。そして署まで連行され、そして同乗の女性のリュックからは覚醒剤大麻が発見された。女性は田代に勧められ、いや、脅されたのかもしれない。断ると嫌われると思ったからであった。そして、検査の結果、田代の尿から薬の反応が現れ、覚醒剤所持と使用の容疑で再び逮捕された。執行猶予中の再犯、何故田代はこのような過ちを繰り返したのだろうか。

田代を知る芸能界の面々からは厳しい批判の声が寄せられた。元『シャネルズ』のメンバーであった桑野信義は「罪を償ってしっかりと心を身体を洗い流してほしいです。二度と芸能界の敷居はまたがないでほしいですね」と絶縁をコメントした。田代は今回は自己の利用に留まらず、人にまで勧めたと言う極めて重い責任、遂に田代は懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けるのだった。現在服役中の彼は「出所しても今後芸能界に関わる事は無い」と主張している。田代は、栄光と転落、両方を味わった男だったのだ。
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