「アビス、お前、ちょっとやばいよな? この空気……」

 スキッドは椅子に足を組んで座りながら、内出血を起こした右頬を押さえて顔を歪めているアビスの隣で小さい声で呼びかける。

「う、うん、まだいってぇ……、メチャいてぇ……」

 押さえている右頬だけでは無く、顔の左部の鼻のすぐ横にも内出血を起こしたような痕が残っており、壁をうっかり壊してしまった後に何が起きたのかを明確に表現されている。

 あの時アビスの目の前に映った少女に二発、渾身の力で殴られたのである。とても少女のものとは思えないような力を受けたアビスは未だに痛みと、その少女の恐ろしさにただ慄く事しか出来ない。

 アビス達は金銭的な事情で四人相室となっており、今はアビスとスキッドだけで隣り合っている。クリスは今は軽い夕餉ゆうげを売店で買いに行っている最中だ。

 一応今は四人全員は折角宿でゆっくりしていくと言う事情で私服状態であるが、今はそんな事どうでもいいような空気である。

 そしてアビスが痛がっている所に、緑色の髪をした少女が非常に不機嫌そうな顔をしながら、ドアをやや乱暴に開き、そして部屋に入ると同時に再び乱暴に開いたドアを押し飛ばすように閉める。

 アビスとスキッドの肘を乗せているテーブルは部屋の中央に置かれてあり、ミレイはやや強制的にアビスの座っている場所の真後ろを通る事になったが、アビスは通り過ぎられる際、恐ろしいほどに身震いするのを感じた。



――通りすがり様に殴られるかもしれない……それがとてつもなく恐ろしい……――



 真っ直ぐと部屋の壁際に置かれた長椅子に落ちるように座り込み、そして非常に威圧的な溜息を吐きながら足を組み、そして手に持っている白い液体の入った瓶の中身を飲み干す。そしてその後に非常に威圧的な溜息を吐いた。

(うっわぁ……ミレイメッチャ機嫌悪そうだなぁ……)

 スキッドはミレイの方から見て確実に見られていると悟られないように、顔は向けず、視線だけを恐る恐る向けて、天井の方を見ながら溜息を吐いて今度は床の方に目をやっているミレイを見ながら、彼女がいかに不機嫌であるかを悟る。

 原因は確実にアビスではあるが、とても話しかけられるような状況では無い為、無言の状態をアビスは保っている。

「ちょっ……おれはいない方がいいよな……? アビス、じゃあな」

 スキッドはミレイからは部外者だと思われている事を信じてか、ひそひそとアビスにそう言いながら、音をあまり立てずに立ち上がり、部屋を後にしてしまった。





(俺も離れた方……いっかなぁ……?)

 多分ここにいれば、アビスも何かしらの仕返しを再度受けてしまうかもしれないと考え、アビスは椅子からゆっくりと立ち上がり、この部屋を出て行こうとした。すると、部屋の壁際に設置されていた長椅子に座っていた少女に呼び止められる。

「アビス、あんたあんな事しといてなんも言わないで出てくんだぁ?」

 怒鳴っている訳では無いが、それでも怒りの混ざったその低めになったミレイの声がアビスにぶつけられる。瓶を右手に持ちながら、部屋を出て行こうとしたアビスの背中を睨み続けている。


「え……あ、いや……そうじゃなくて……」

 アビスは怒りの感情を全く外す様子を見せてくれないミレイに対し、何かを言い返そうとするが、少女から放たれる恐怖が思うようにアビスの口を動かさせてはくれなかった。。

「じゃあさっさと出てけば? あんたみたいなエロ男とはもう組む気も無いし、折角会えたと思って友達気分で付き合ってたらあれ? 正直時間の無駄だったわね!」

 ミレイはさっきまで低かった声を多少大きくし、反省している様子を確認する事の出来ないアビスに向かって絶交を宣言するような言葉を飛ばす。右膝を立て、その上に右腕を乗っける。



「え、あ、いや、ちょっ待ってくれって! あれ……えっと、俺悪かったって思ってるし! でもちゃんと理由あんだよ!」

 このままでは謝罪をする前に目の前からいなくならなければいけなくなるかもしれない。そう思ったアビスは認めてもらえる可能性は極めて低いであろう、短い言葉を、震える声でミレイに渡す。

「覗きに理由なんてあんだぁ!? へぇ凄いわねえあんたのその思考ってのは!! でももう別にいいわよ、あんたとはもう一生組まないから!!」

 アビスの謝り方が気に入らなかったのか、ミレイはさっきまで小さく保っていた声を突然高く荒げ、どこか暴力的な雰囲気までも纏わせた威圧的な態度で、左手だけで少しだけ乱れたジャケットを正しながら距離を離そうとする。



「いや……そんな事言わないで……くれよ! ホント……ホントごめん!! ごめん!!」

 遂に怒り出したような様子、その大きくした声を発したミレイに焦りの気持ちを覚えたのか、アビスもさっきまで怯えて小さくなってしまっていた声を勇気を振り絞ったかのように大きくし、そして今度こそと言わんばかりに恥等を気にせず、頭を下げて謝罪をする。

「あのさぁ、あんな事しといて謝って済むって思ってる訳!?」

 謝ったアビスであったが、ミレイの怒りはその程度で収まる事は無かった。アビスからしてみればミレイの何も纏っていない姿を見たつもりは無いのだが、ミレイから見れば突然壁を破壊して現れたアビスに裸体を見られ、そこから生まれた羞恥と激怒の感情で黙っている等無理に等しくなったのである。

 そもそも女湯に男が攻め入ってくる事事態あり得ない事だ。その違法的、そして反人道的なその行為に対して怒りを隠す等絶対に無理な事だった。

 ミレイは瓶を乱暴に長椅子に置くと、立ち上がってアビスとほぼ同じ視線を保ちながら再び怒りの籠った声をアビスに放つ。

 こう言う怒りの場面に遭遇すると、何気ないアクセサリーであるミレイのピアスがどこか威圧的で暴力感の篭った空気を飛ばすような印象を受けてしまう。



「ちっちぁうんだよ!! 覗きじゃなくてなんかえっと……変な動物いたから、なんだよ! マジだって!」

 アビスは再び殴られるのだろうかと思い、両掌をミレイに向け、そして体を斜め後ろに反らしながら、ある意味では事実であるそれを伝え難を逃れようと試みる。最も、確実に逃れられる保障は無いが。

「そんなもん言い訳にすらなんないっつの!! あっちが女湯だって分かっててなんで覗いてんのよ!? 結局覗きしてたんじゃないの!?」

 無責任な言い訳に遂に腹を立て、怖がるアビスに元々近かったその距離をさらに縮め、両拳を握り締めながら怒鳴り散らす。壁からアビスが現れた以上、その目的は確実に女湯だったと言うのは、ミレイには目に見えていた。

「あ、いや……ちぁう……目的違うし……」

 怒鳴り出したミレイに再び心臓の鼓動が恐怖によって激しく動き出すのを覚えたアビスはまともに口を動かすのも難しくなり、『違う』と言う言葉もまともに話せなかったが、後半である程度立て直し、卑猥な事はしていないと主張する。



――だが、覗きでは無かった事を、ミレイが信用してくれるのか?――



兎に角!! あんたは……まあ細かい理由はいいとして、結局女湯の方覗いてたって事に代わり無いわよね!? もうあんたとは絶交決定!!」

 まるで自分の悪行を正当化するようなそのアビスの台詞が気に入らなかったミレイは再び怒鳴り声をあげる。

「あ、ちゃ……えっと……なんか……婆さんが、いて……」

 震える口を何とか動かし、壁に近づくまでの経緯を話そうと、まずは最初に老婆の事を口に出す。



「経緯なんかどうでもいいっつの!! そうやって人がいたら覗いてもいいって思ってんだぁ!?」

 ミレイはアビスのその言い分に更に怒りを混ぜながら、青い目を細めて後半部分で再び大声をあげる。



――普通、男湯に女が行くだろうか? アビスは信用されず……――



「いや……それは駄目だって……分かってるけど……」
「分かってんならじゃあ何で覗いてんのよ!? 普通に考えておかしい事だって分かんない!? あんたってそうやって人の裸見て楽しいの!? こんなに人怒らせてさぁ!!」

 アビスの嘘話を二度聞く事でミレイの態度も再び悪い方向へと移り始め、怒りながらも多少は整えていた喋り方も乱暴になっていく。

「いや……見て……ねんだって……ホントだから……。って、タオル、巻いてなかった……のか?」
「あんた何ちょっと反発してんのよ? タオルだってぇ? なんであんたみたいな奴の為に防衛しなきゃなんないのよ?」

 アビスのなぜタオルを巻いてなかったかと言うその台詞の際、どこか口調が強くなったのを感じたミレイは反省の色が見えないとして、既に体勢を伸ばしているアビスの体を乱暴に掌で押し飛ばし、何だか肉体的な暴力が飛んできそうな雰囲気にまで発展する。

 アビスにとっては同性同士であっても風呂場等の施設ではタオルを纏わせておく事はごく普通の事だと思っており、まるでミレイのせいにするかのような台詞で自分を正当化するも、ミレイの威圧感には到底敵わない。



――こんな状況では、アビスが優勢な立場に進む等、絶対に無理だ。無駄な抵抗は止めるべきだ……――



「あっいや……そうじゃなくて……」

 アビスは決してミレイを怒らせようとしてあの発言を飛ばした訳では無いだろうが、予想しない方向に事が進んでしまった為、再び言葉を失ってしまう。今のアビスの心情は恐怖で包まれているはずだ。

「ってかあんた反省してんの? 真面目にしてんの?」

 ミレイは両手の拳を恐ろしい程に強く握り締めながら、現在アビスが最低限しなければいけない行動を、本人が取っているかどうかを訊ねる。口調は僅かに緩められているが、一瞬の油断で再び怒り出しそうな空気である。



「あ、も、勿論してる! 俺マジで悪かったって思ってるし、だからもうキレんのやめ――」

 安心し切ったアビスは、さっきまで怯えていた表情に笑顔なんか混ぜ、目付きが悪くなっているミレイに対して何だか軽い気持ちで自分の罪を認め、そしてミレイにも怒る事をやめるように言おうとしたが……



――ミレイの左手がアビスの茶色のシャツを乱暴に掴む……――



「あぁ? キレてるって何よ? あんたなんで全部あたしが悪いみたいな言い方出来んのよ?」

 アビスの胸倉を少女とは思えないような力で掴み、そして引っ張り寄せながらミレイは治まりかけていたかもしれない怒りを再度蘇らせてしまう。きっとアビスの態度の変わりぶりが納得出来なかったのかもしれない。

「あ、ちぁう! 違うって! お前が悪いなんて言ってねぇだろ……何すんだよ……?」

 ミレイの左手1つで動きを封じられてしまったアビスは、首元に苦しさを覚えながら、誤って伝わってしまった可能性のある先程の発言の訂正をしようと必死で声を出すが、はっきりと反発するような度胸はアビスには無いらしい。



「あんたの態度がそう言ってんのよぉ!! あんたあたしの事無礼なめてんの!?」

 相手が怯えていようとも、まるで手を抜く事をせず、ミレイはアビスを掴んでいる左手を上に向かって持ち上げていく。何だかアビスの身体が持ち上がってしまうような雰囲気である。

「いや無礼なめ……無礼なめるだなんて……そんな事ねって……」

 アビスは何とかミレイの左手を離そうとその赤いジャケットの袖を震える手で掴むが、案外ミレイの握力は非常に強く、簡単には離れてくれなかった。



「女の子の裸見てたったそんだけの謝罪で許されると思ってんだぁあんたってのは!?」

 アビスの謝り方が弱いからか、ミレイは身体の下の方でぶら下げていた右手を握り締め、右腕に連動させるかのように身体自体も怒りで震わせ始める。至近距離からアビスに怒鳴り声を浴びせる。

「だから……ホントなんだって……マジで……」

 アビスにはアビスの意見があるのだろうが、怒っているミレイに歯向かうだけの度胸を持っていないからか、言いたい事すら本気で言えず、現在に至っている。



「まぁたあれ!? 見てないとかほざくのかって!?」

 ミレイは怒りによってその思考回路さえもある程度高速で動いているからか、アビスが言いたい事を予測しながら怒鳴るなり、更にアビスを自分の目の前に引っ張り寄せていく。もうこの状態を別の誰かが見ると、少年に対して少女がカツアゲでもしているようにしか見えないだろう。

「いや……マジで……見てねって……」

 きっとアビスは本気で見ていなかったのだろう。だが、ミレイからしてみれば、全裸の状態で異性が風呂場に現れた事を考えるととても伝わるとは考えにくい。



「信用出来るかっつの!! また殴って忘れさせてやるわよ!?」

 アビスの言う事を信じる事が出来なかったミレイは、右手を持ち上げ、今にも殴りかかりそうな体勢と表情になり、再度怒鳴り声でアビスを怖がらせる。

「いやちょっ……! ま……待っ……」

 直接殴られる事だけは避けたかったアビスは震える声で何とかミレイに言い返そうと口を動かすが、男としてあまり好ましくない現象をミレイを相手に見せつけてしまう事になる。



――その時、アビスの茶色の目に僅かながら涙が浮かび……――



「反省してっとこ全然感じられ……!! ってもういいわなんか……はぁ……」

 ミレイは怒鳴っている最中、アビスが泣き出しかけている事を察知し、怒りを通り越してなんだか情けない気分にもなってしまい、まるで突き放すかのようにアビスから左手を離した。

 解放した後に出てきたミレイの溜息が、女々しいアビスをより強調させていた。

「……」

 アビスの方も、これで殴られる危険も無くなったと安心したからか、無言でその強張っていた呼吸を整えた。



「なんかあんたの事虐めてるみたいだから、もういい」

 いくらアビスが悪かったとは言え、ミレイにとってはこれ以上責め続ければ本気で無抵抗な相手をしいたげ続ける事になってしまうと思ったのだろう。弱い者を執拗に責めるのは好きではなかったからか、言い捨てるようにアビスをやや弱まった瞳で睨んだ。

「あ……ごめん……」

 ある意味で自分の気持ちが伝わったからか、アビスは改めてまた弱々しい謝罪を投げかけるが、まだミレイに対する恐怖が抜けていないからか、まだミレイをまともに直視出来ていない。



「あたしこれでも人虐めんの嫌いだし、あんたみたいな奴が覗きなんか本気で出来る訳無いだろうしね。度胸無い奴がする事じゃないし」

 ハンターという職業柄故のプライドなのか、ミレイは抵抗も出来ないような相手を標的にする事は好きでは無かったようだ。それに、例のあの覗き行為だってその後の報復を考えると、きっと臆病者が出来るような行為では無かっただろう。最も、バレなければ話は変わるかもしれないが。

「いや……うん、覗きは、してなくて……」

 アビスも今ならしっかりと自分の意見を聞いてもらえると思ったからか、極度の緊張感でシャツの中で汗で少し塗れてしまったその状態で、また弱々しくそう言った。



「なんか動物がどのこのって言ってたみたいだけど、ってかあんたハッキリ言って弱過ぎなんだけど?」

 ミレイはふとアビスが漏らしていたその別の事情を思い出したが、それよりも前に気になった点が浮かび上がってしまった為、一度アビスが目視した内容に関しては一時的に置いておき、アビスの性格について指摘をし始める。

 まさか、ミレイはもう少し派手な反論とかを予想していたのだろうか。

「いや……そりゃ……お前が……ちょっと……」

 きっとアビスには反論をする隙を見つける力が無かったのかもしれない。だから怒り出したミレイに主導権を握られ続けていたのだろう。徐々に精神が安定の方向に進み始めていたから、アビスは軽く笑みを浮かべながら、ミレイの青い瞳と向き合った。



「アビスさあ、あんたまさか村で虐めとかされてなかっただろうねぇ? 今の様子見ててちょっと不安になったんだけどさあ、大丈夫だろうねぇ?」

 ミレイの中で、一種の不安が頭の中でよぎり、まだアビスと出会っていなかった時のアビスの生活を心配する。一応彼もハンターではあるが、度胸の面ではまだまだ足りない所があったから、一応は友達であるミレイとしては、不安な要素となってしまったのだ。

「いや、それはねえけど……」

 アビスは村で虐めにあった経験は無い様子だ。勿論嘘を言った所でミレイには分からないだろうし、アビスのそれも事実かどうかは不明である。



「だったらいんだけど、次また変な事してきたら……分かってんだろうねぇ?」

 どうやら虐められていた過去を持っていないらしいアビスに安心したミレイではあるが、もし今度、ミレイの入浴中の姿を覗くような行為を取った場合、もうアビスはその先の未来は無いのだろう。

 その時に向けられた、ミレイの青い瞳には恐ろしい程の殺意が篭っていた……

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