今、機関車の中ではとんでもない事が発生している。内部で乱闘を持ちかけてきた賊達を何とか払い除けたミレイであったが、それだけで事態が収まる事は無かった。寧ろ、それが本当の始まりだったと表現した方が正しいのかもしれない。
――肥満、そして凶暴な面構えを持った中年の大男……――
ミレイはまともに動けなかった。そしてこの後どうすれば良いのか、思考が上手く働かなかった。まるで身体全身が凍りつくように。
ただ、一つだけ言える事がある。
――アビスをどうにかしなければ……――
「あんた、アビスに何したのよ……!?」
ミレイは自分よりもずっと身長も、横幅も大きいであろう肥満の男に向かって、構えの体勢を取りながら一体アビスにどのような仕打ちをしたのかを訊ねる。
相手が巨漢と言う印象を力強く与えてくれている為か、ミレイは多少の恐怖を覚え、やや声が強張らせている。本当ならば、すぐにでも飛び込んでアビスを奪還したかった。しかし、恐怖と言う虎挟みがその動作を封じ込めている。
「標的を痛めつけた。ただそれだけだ」
肥満の男は淡々と、低い声で返答する。内容は非常に短いものではあるが、アビスの傷だらけの状態を見れば、言葉以上に乱暴な仕打ちを見せ付けたに違いないだろう。
「あたしらがブラックリストとか言うやつに乗ってたから? まあそれはあいつらから聞いたんだけど」
肥満の男が行動を起こした理由がブラックリストにあるとミレイはすぐに悟り、そしてその話を聞かせてくれた今は背後で立ち尽くしている賊達に利き手の親指を差して目を凛凛しくさせる。
「そうか。それは親切な奴らだったなぁ。ハンターを始末するのがおれらの使命だ。悪く思うなよ」
未だアビスの首筋を離さず、既に自分の言おうとしていた内容を賊達が話していたと言う事実を知るなり、肥満の男はその厳つい顔に笑みを浮かべる。それは決して愛嬌が篭っているとは言い難いが。
「あいつらにあたしの事捕らえるように命令したのって、あんたなの?」
ミレイは賊達が言っていた事を思い出す。誰かに命令されて動いていたとは言っていたが、その肝心の部分は口に出してくれなかった。だが、今ここに賊達の上司に当たるであろう人物が出てきたと言う事は、きっとこの男が命令を下していたのだろうと、単純な思考を働かせ、真意を問い
「違うな。ミリアム様だ」
肥満の男は単刀直入に否定し、そして命令したであろう人物を簡単に口に出してしまう。この男は頭が多少悪いのだろうか、隠す素振りすら見せず、あっさりと言ってしまったのだ。
外見は恐ろしいオーラと強さを放っているものの、頭の弱い奴ならば、情報を引き出す時に非常に役に立つ事であろう。
「ご親切にありがとう」
「どういたしまして……なっ!!」
ミレイは素直に答えを教えてくれた肥満の男にややぶっきらぼうに礼をするが、即答で礼を返してきた肥満の男は、突然顔を強張らせ、そして、
――アビスを頭の上に両手で持ち上げ、そしてミレイに向かって投げつける!――
投げる際にアビスの頭をミレイの方向へと向け、そのまま力任せに投げ飛ばす。ミレイに返そうとしたのか、それとも投擲道具として扱おうとでも思ったのかは分からないが、どちらにしても投げられた方及びそれを受け止める側としては相当な負担となる事だろう。
人間は相当な重量を持っている。下手にぶつけられればどちらも重症を負う危険性が高い。
「ちょっ……!!」
一体目の前の男が何をし出すかと思えば、アビスを力強く投げつけてきたのだ。ミレイは一瞬だけ避けようと言う意識を覚えるも、避けた場合、アビスが地面に投げ出され、元々傷だらけだと言うのにさらにそれに追い討ちをかける事になってしまう。
だからこそ、ミレイは避けなかった。避けず、アビスを全身の力を使って受け止める。まるで抱きしめるように受け止め、その飛んできた際の反動で思わずミレイは背中から床に倒れる。
無理も無い事だろう。身長はアビスとは殆ど変わらないが、体重はアビスの方がずっと上である。小物を受け取るのとは訳が違い過ぎる。全身に重たく圧し掛かってきた過重な負担はミレイを転ばせるには充分だ。
それでもミレイはすぐにアビスを抱いたまま上体を起こし、右膝と両腕で支えるような体勢で荒い息遣いのアビスの顔を見ながら声をかける。顔についた痣や擦り傷がとても痛々しい。
「アビス、大丈夫!? あっちで何されたのよ?」
ミレイはアビスの安否を確認する。とりあえず呼吸はしている為、まず生きている事には間違いは無いだろうが、殴られて相当体力を持って行かれてしまっているだろう。
アビスはゆっくりと、辛そうに口を動かした。
「あぁ……あっちでばったり会って、名前聞かれたから、普通に言ったらいきなり……」
そこでアビスの声が途切れてしまう。呼吸しなくてはいけない状況になったのだろう。大きく肩で呼吸しながら、体内へ酸素を取り入れる。それだけ体力の消耗が激しかったのだろう。
「やられたって訳ね……」
ミレイはすぐに理解した。恐らくその肥満の男から突然名前を聞かれ、その名前が今回捕らえるべき標的の対象だったが為に速攻を仕掛けられてしまったのだろう。その時はミレイは賊達の相手をしていた為に物音に気付かなかったのだろうが、それにしてもアビスもやや情けないものである。
女の子の方が無事に危機を切り抜けられたと言うのに、男であるアビスの方は簡単に敗北してしまっている。だが、肥満の男の方が賊四人分よりも明らかに強そうなのは確かではあるが。
「喋ってる場合じゃねぇぞ」
突然肥満の男は言いながら、ゆっくりとアビスとミレイの元へと歩いてくる。
その動作を確認したミレイはアビスをどこか安全な場所に移動させようと、周囲を素早く見渡すが、機関車内では完全に安全な場所等あるはずが無い。ほぼ一本道に近いこの空間では確実に安全な場所を探すのは無理がある。
だが、座らせるくらいなら出来るだろう。咄嗟に見つけた丁度一人分空いている席にアビスを移動させる。
「あ、あの、すいません、しばらくアビスを座らせてやって下さい」
ミレイは相席になったその中年の女性の乗客に頭を下げて着席の許可を求めるも、その女性はそれに対する返答では無く、もっと別の意味を込めた言葉を荒げて発する。人差し指を機関車の進行方向へと焦るように差しながら。
「いいから前! 前見て!」
その言葉に反応し、ミレイは咄嗟に肥満の男のいた方向へと目を戻す。
――もう既に近くまで来ていたのだ。肥満の男と、ミレイが直接やり合う距離に入るまで後数秒程度……――
「あ、ごめんなさい!」
女性に一言お礼と言う意味を込めた謝罪を投げかけ、そしてすぐに肥満の男へと向き直し、
「来たわね!」
ミレイは男を睨みつけながら、構えの体勢に入る。
「いい気になんなよ……ガキ!!」
肥満の男は脂肪で膨らんだ右腕をゆっくりと持ち上げ、そして拳を握る。
――そして怒鳴るように言い放った言葉と共に、ミレイへと解き放つ!――
その重たいであろう一撃をミレイは左にずれて回避し、そして左足に渾身の力を込め、男の顔を狙って回し蹴りを食らわせる。
「あんたこそね!!」
ミレイも男の声の音量に劣らない気合を浴びせつける。蹴りと共に。
男の顔は大きく揺れ動き、ミレイの蹴りの威力は絶大だった事を、見ていた者に知らせてくれる。だが、それはあくまでも外観上の問題でしか無かった。
――男は嫌らしくにやけ、そして左拳をミレイに飛ばす!――
蹴りの後だった為、ミレイは咄嗟に回避の体勢に移る事が出来ず、まともに右の頬に非常に重たい一撃を受けてしまう。
「うぐっ!」
ミレイは鈍い悲鳴をあげて後方へと押し飛ばされ、その男の力に耐え切れず、そのまま背中から倒されてしまう。しばらく痛みで身体を硬直させた後、非常に苦しそうに表情を歪めながら、よろよろと立ち上がる。
「なるほど……女の子相手でも本気でかかってくるって……訳ね」
痛む右頬を強く押さえながら、相手が性別を理由に手を抜いてくる事無く襲い掛かってくる事を悟り、崩された体勢を整え、再び構える。
「ふん、当たり前だ。お前ぐらいの奴、その程度ならやられんだろう」
男は指を鳴らしながら、痛がるミレイを見て笑みを浮かべる。
「そお……。だったらこっちも好き放題やれて好都合ってもんよ!!」
――ミレイは右拳を自分よりも遥かに高い位置にある男の顔面目掛けて投げ飛ばし、
そしてその拳の反動を使い、身体を回転させて左足で後ろ回し蹴りを同じく顔面目掛けて飛ばす!――
二度連続で顔に攻撃を受けた男は身体を仰け反らせ、そのまま、立ったまま状態で口も、身体も動かさなくなる。
「ん? どうしたのよ? まさか今のでおしまい? 威勢がいいのはその口と膨らんだ身体だけ? 結局身体だけデカくても所詮は弱いって訳ね」
ミレイは構えの体勢を崩さず、今の攻撃で痛がって動かなくなってしまっているであろう男に向かって勝ち誇ったように言い放つ。
しかし、男は痛いから硬直状態を保っていた訳では無かった。正面に向きなおすと、ミレイの背後で戦いを黙って見ている四人の賊に向かってとある指示を出した。
「お前ら、手は出すなよ。俺一人でこいつの事片付けるから」
「はい!!」
肥満の男の指示一つで、賊達は一斉に肯定の返事をあげる。それはまるでこの肥満の男に対する信頼と、強さを保障しているかのようにも見える。
「あれ? なんだまだやられてなかっ……!」
男のそのまるで弱気を見せたくないと言う気持ちの現われであるような、他者の力は必要無いと言う宣言に対し、ミレイはまだ自分の攻撃が甘かったのかと再び拳を握る力を強くするが、ミレイの声はとある事情により止められる。
――男の両腕がミレイの胸倉を縛し、そして強引に宙へと持ち上げる!――
「なっ!」
ミレイはジャケットの両端と共に中のシャツを掴まれると同時に驚きを意味した短い言葉を発するが、それをあっさりと無視され、そのまま華奢な体格に相応しい軽い体重を持つ身体を上にあげられる。咄嗟に空いている両手で男の腕を掴み、拘束から逃れようとするが、無理だった。
持ち上げられている本人は気付いてはいないだろうが、シャツを掴まれる事によって身体から僅かに持ち上がり、細く
服越しに男の指が肩の皮膚に食い込み、そこから発せられるであろう痛みによってミレイの表情が歪む。
「ふふふふふふ……」
男は悪い企みを持ったような、わざとらしい笑い声を発し、天井に向かって真っ直ぐと伸ばした腕の先に掴まれた少女を一度目を細めてその苦しがる様を見て味わった後、突然その緩んでいた表情を鬼の様な人相へと変貌させる。
「んん〜〜!!」
――ミレイを振り回すように、すぐ隣の椅子目掛けて叩きつける!――
「きゃっ!!」
ミレイの背中に走るのは鈍痛だった。椅子には座る者への長時間の負担を軽減する為のクッションが仕掛けられているが、男の本気を出した力を前にすればそれは立派な硬度を携えた壁と化する。
思わずその椅子に座っていた乗客はその衝撃的な光景に距離を取ろうと窓際へと身を逸らす。
勿論男の攻撃はそれだけでは終わらなかった。
「うぉらぁ!!」
――次は渾身の力を込め、一気に天井に向かって持ち上げる!――
地面と天井の距離はミレイより遥かに身長の高いこの肥満の男よりも広いものがあるが、この男が天井に向かって腕を伸ばせばすぐに天井に触れる事が出来る。
ミレイは突然感じた上へと向かうその感覚に、咄嗟に両手で頭を庇う。ミレイの刹那の判断と、天井に激突した身体の箇所が見事に一致し、頭部はある程度は守られた事であろう。
天井に向かって頭からぶつけられたのだから、油断をしていれば衝撃が全て頭部へと注ぎ込まれる事だっただろう。
「くっ!」
男の攻撃はこれで終わらせてはくれなかった。まだ最後の一つが残されていたのだから。
「おらよっ!」
――
男の偶然か、それとも狙ってなのか、両端の席には激突する事無くミレイは落とされる。
「がぁ!」
背中から落とされたミレイは床に叩きつけられ、鈍い音と共に濁った悲鳴をあげる。
「弱いな。だがそれだけじゃあまだくたばらんだろうな」
自分の足元で仰向けに倒れながら荒く呼吸をしているミレイを見下ろしながら、男はまだミレイには気力が残っているだろうと読み、頭を左右に倒しながら首の凝りを
「当ったり……」
ミレイはしっかりと男の言っている事は聞いていたようだ。それを聞き、返答をしながら、そして一気に足を腰を軸に上半身側へと反らし、一気に両腕を伸ばしてハンドスプリングのように飛び上がり、後ろ側から回転するように足から着地する。
「前よ!」
着地と同時に両腕をそれぞれ外側へと払う。今の目の前にいる敵対する男の前で余裕気な状態を見せ付けてやろうと僅かに格好をつけた起き上がり方をした際に僅かに蓄積された両腕への負担を取り除こうと言う行為だろう。
本当の意味で取り除かれたかは不明だが、恐らくは本人の気持ちの問題だろう。
「それは良かった」
それだけ言うと、男は肥大化した身体を歩かせ、徐々にミレイへと接近する。
「まだ始まったばかりなのに、あれで終わってちゃあ……」
男を睨みつけながらミレイは立ち上がり、男と大して離れていないその距離で走り、
「詰まんないからねぇ!!」
右膝を男の脂肪で膨れ上がった腹部の奥に隠れている
そして、即座に右膝を引っ込め、飛び上がり、
――左足によるローリングソバットを顔の側面へと叩き込む!――
身体を大きく捻り、渾身の力を左足へと注ぎ込み、防御の脆い顔へとその力を送り届ける。
普通の人間ならばこれだけで簡単にやられてしまうだろうが、この男は『普通』では無かったらしく、その驚異的な攻撃を受けながらも、着地するミレイの顔面目掛けて再び拳を飛ばす。
「!!」
ミレイは着地の最中だったが為に身体を
それでも相当な威力を持った痛手だと言う事には変わりは無いが。
「やめておけ。おれにそんな攻撃は効かん」
驚く事に、あれだけのミレイの攻撃を受けながらも、痛がる様子を全く見せ付けない男である。肥満なその身体が外部からの衝撃を全て吸収してしまっているのだろうか、一番最初に現れた時から、まるで表情が変わっていない。
それでも頭部はやや無防備とも呼べるかもしれないが、頭部への攻撃も殆ど効いていないのが途轍もなく恐ろしいだろう。
「じゃあどうしろってんのよ?」
男からの拳を受けても倒れず、ハンター業で鍛えたであろう精神力で持ち応えながら男の諦める事を回りくどく勧めてくるその言葉に対し、少しだけ呼吸を乱しながらミレイは訊ねる。
訊ね終わると同時に左足を発動させ、男の右足間接を横蹴りで狙い、そして素早く膝と腹部が接触するくらいまで左足を天に向かって伸ばし、踵落としの要領で男の胸元に振り下ろす。
「黙って捕まってりゃあいい!!」
短く、単純に答えると男は今のミレイの二連続の足による攻撃をものともせず、男も足による攻撃でミレイを突き飛ばす。
ミレイの身体全体を使ったような華麗な蹴り技とは異なり、ただ純粋に後ろへと押し出すような、単純な蹴りではあるが、男のその非常に重たいであろう体重と重なり、ミレイは簡単に押し飛ばされる。
狙われた胸元を守ろうと、両腕と右膝で防御の体勢を取るミレイだが、その男の重さを殺しきるのは不可能だった。結果として後方へと押し飛ばされるが、押された瞬間に持ち上げていた右足を下ろし、転ばないようバランスを取る。
「あっそぉ! 分かっ……」
蹴られながらもぶっきらぼうに答えるミレイだが、言い切る前に男が走り寄り、そして、
――肉厚の腹でミレイに体当たりを仕掛ける!――
「おらよっ!」
「うっ!」
ミレイも蹴りだけなら何とか防ぎ切れるかもしれないが、流石に全体重を乗せられては堪ったものでは無いだろう。ミレイの倍以上の体重を誇るであろうこの男の突進による威力も上乗せされればその力は凄まじいものへと化するに違いない。
ミレイは蹴りの時以上に大きく押し飛ばされ、後部客車へと続く木造の扉へと背中を打ち付けられる。
「結局何がしたい……!」
背中に走った鈍痛に耐えながら何とか口を動かすミレイであった。腹で攻撃すると言う行為に対してなのか、それともミレイを捕らえると言う、何か深い目的を持っての行為に対しての事なのか、訊ねようとするが、男はその質問を待とうとはしなかった。
その証拠として、
――ミレイに向かって飛び上がり、
その殺気をすぐさま感じ取り、ミレイは両腕を交差させ、狙われている胸部を力強く保護するが、男の蹴りの威力は完全には殺し切れなかった。しかし、背後にあるのは木造の扉。その扉までもが男の蹴りを受け止められず……
――扉が中央から横に向かって大きく割れる!――
ドロップキックの力量はミレイを通じてその背後にある扉にまで浸透する。蹴られたミレイは扉を易々とぶち破り、木片と共に床へと背中から倒される。
派手に左右に割られた事によって支えを失い、木片を散らして無機質な音と共に床へと倒れ落ちる。