やがて、ミレイは強制的に男の腕から解放される、と言うよりは投げ落とされる。

 機関車の進行方向とは逆の場所に落とされ、どうにかもうこれ以上は背中に激痛が走る事だけ免れたかのようにも見える。



――だが……、ミレイは肉体的にもう本当に……――



「はぁ……はぁ……」

 落とされた後にすぐ立ち上がれず、ミレイは両目を強く瞑りながら荒い呼吸を繰り返す。どんどん力が体内から抜けていくのを覚える。

 だが、このままでは男の好き放題と化してしまう。全身に鞭打つかのように、力を何とか振り絞って出し切り、立ち上がるが、その時には既に敵対する相手が目の前にまで迫っていた。

「死ね!!」

 男も早急に任務を終わらせたい一心なのだろうか、弱りきった少女に拳を飛ばす。怒りしか見えない怒鳴り声と共に発せられた一撃は勿論ミレイに命中するが、ミレイ側も両手を使ってある程度はその衝撃を受け流す。

 歯を食い縛りながら倒れぬようバランスを取った後、ミレイも仕返しをする。顔の側面辺りから血を流しながらも、瞳に力を込め、そして男の右足の関節部分を蹴り払う。

 その膨らんだ足を払い、転ばせる事は出来なかったが、攻撃の手段としては悪くない選択だ。そして次は持ち前の柔軟性で男の顔を再び狙う。利き足である右足を撓らせたのだ。

「痛てっ!」

 やはり男も既に忍耐力の限界が来ていたようだ。ミレイのあの強烈な攻撃の数々は決して無駄では無かったのだ。しかし、今頃になって痛みに苦しみ始めるとは、外見的な特徴から見て動作も鈍そうではあるが、神経も鈍い事なのだろう。



――これならミレイにも勝機があるかもしれない……――



「どうしたのよ……、やっと痛いのが分かってきた……みたい……なやつ!?」



――ミレイの右拳が男の腹部に突き刺さる!――



 男の攻撃をいくつも防いできた腕に蓄積された痛みを根性で無視し、右腕を発動させ、同時に声も強く、大きくなる。

 今度動いたのは左腕である。力を溜める動作なのだろうか、大きく後方へと振りかぶり、上からえぐるように同じく腹部を狙い打つ。

「さっきから痛てぇじゃねぇかぁ!!」

 男は再び苦痛に満ちた怒鳴り声を飛ばし始める。きっと腹にも相当な打撃による痛みが残っていたに違いない。だが、勿論の如く、怒号だけでは終わらせない。



――自分の苦痛を相手にも伝えるべく、連続的に量拳を突き出し始める……――



 痛みは走っているものの、体力的には男の方がずっと優勢である。全てを回避し切る体力はミレイには残されておらず、両腕を使ってそのしつこい拳を受け流す事しか出来なかった。

(いや……! しつこっ……!)

 攻撃を防御しているミレイには最早直接口に出している余裕は無かった。何度も飛んでくる拳をただ両腕を盾のようにして顔面への直撃を防ぐしか出来ない。

 何とか隙を見つけてその不細工なつらに再び渾身の一撃でも喰らわせてやろうと考えているのかもしれないが、男の追撃、そしてその後の更なる追撃により、隙を見つけ出せない。

 確実に体力も関係している事だろう。ミレイの持ち前の反射神経も体力の低下により、著しく鈍くなっている。最悪の場合、延々と受け続けるしか無くなってしまうかもしれない。



――だが、受け続けていても徐々に体力は奪われる……――



 はたから見ていると、ミレイは男に対して恐怖心を抱いているようにも見えてきている。体力の低下及び徐々に蓄積されていく傷跡が男の攻撃に対して怯えさせるだけの要素を与えているのだろう。

「おいどうしたんだよ? 守ってばっかじゃあおれにゃあ勝てねぇぜ?」

 殴る腕を止めずに男は怖がっているであろうミレイに軽い声を浴びせ、そして、握っていた両手を開き、ミレイを全体重を使って押し飛ばす。

「ったっ!!」

 踏ん張るだけの力が残っていないミレイはそのまま床へと転ばされる。足で踏ん張る余裕も与えられず、背中から衝撃が走る。

 だが、体力に危機があるとは言え、相手から何度もしつこい攻撃をされた後だ。この連続攻撃から解放された瞬間を逃す訳にはいかないと心の中でとある希望を煌めかせながら、痛みを気力だけで堪えながら、起き上がる。

「もっとやってやるぜぇ!!」

 左右に軽く揺れながら立ち上がるミレイに走り寄りながら、拳を握って襲い掛かる。



――ミレイは何故か、疲れの奥で、笑みを浮かべていた……――



――勢いのついた一撃で再び飛ばされそうになっていると言うのに……――



――だが、やけに冷静であるように見える……――



 ミレイは力強くしゃがみ込み、男の打撃を回避し、そして勢いに乗った身体がミレイとぶつかり合うその瞬間である。



――力強く立ち上がり、そして同時に拳を下から突き上げる!――



 立ち上がるその勢いが右拳に伝わり、ミレイ本人の腕力に加算される事により、威力が倍増する。

「はぁああああ!!」

 体力が消耗しているとは言え、それは文字通りの渾身の一撃と化し、先ほどの攻撃よりも一段と深く腹へと食い込む。

「ぐうっ!」

 やはり男も消耗していたのだろうか、男は目を大きく開きながら、詰まった声をあげる。だが、そんな男の表情はミレイの瞳には映っていない。次にすべき行動は、無論、追撃である。

 すぐに左拳を握り締め、今度こそその不細工な顔に鋭い一撃を喰らわせる事に成功する。

 ミレイの左手にはまるで骨と骨がぶつかったかのような堅く、そして無機質な衝撃が伝わるも、ミレイにとってはそれは喜びと誇りを意味するものだ。

 だが、そのようなミレイにとって都合の良い事柄の後に来るのは、必ず絶望である。

「やっぱ……痛いん……だね……はぁ……はぁ……」

 左手を下ろした所で再び喉元に走る苦しみを覚え直す。ミレイはその疲れを何とか押し殺しながら再び男に対して形勢逆転の立場を狙おうとするも、それは即座に打ち壊された。



――男からすれば、拳の一つで軽々と黙らせられるのだから……――



「くたばれ!!」

 自分より遥かに低い身長のミレイに対し、男は上から下ろすように、拳をミレイの顔を横殴りにする。ミレイ側も再び男の顔を狙おうとしていたようであるが、男はそれを砕いたのだ。

「うぐっ!」

 今度はミレイも腕による防御が間に合わず、まともに受けると同時にその衝撃に押され、床へと倒される。

 だが、男は床に崩れたままのミレイを放置しない。身体を横に向けるように倒れているミレイの緑色の髪を乱暴に掴み、そして、左手を握り始める。

「ふふふふ……」

 その企みの見えた作り物の笑みの後、



――男の掴んでいるものを目掛けて左拳を下から突き上げる……――



「!!」

 口から血を流しているミレイの細くなった瞳は男の拳を捉える事に成功する。今、目の前へと迫ってくる恐ろしい一撃を何としてでも防ごうと、両腕を顔面の前に持っていく。



――そして一秒も満たない後に……――



 両腕に非常に重たい衝撃が走る。男の左拳がそれを伝えてくれたのだ。だが、不思議と今更痛いとは思わなかった。ミレイの痛覚は殆ど慣れが生じてきたのだろう。だが、今問題なのは、男の右手がミレイを自由にしていない事だろう。

 男は手による攻撃をやめ、足による攻撃に切り替える。

「おらぁ!!」



――その一言だけを飛ばし、逃げられないミレイの腹部を足で押し飛ばす……――



 前に向かって突き出されたその足はただ前方に向かって突き出されるだけの単純なものではあるのだが、弱りきったミレイにとっては生き地獄に等しい攻撃である。

 ミレイはその痛みに顔を歪めるが、男は次の蹴りでミレイを解放する。

 逃げられないミレイにじっくりと狙いを定め、そして右足に力をみなぎらせ、再び腹部を足で押し飛ばし始める。男はわざとミレイのバランスを崩させる為に蹴った後少しだけ時間を置いて髪を離したのである。

 案の定、痛みとバランスの崩落に耐え切れず、ミレイは再び倒されてしまう。



――もうこれで何度目だろうか……、重たい攻撃を受け、床へと崩れるのは……――



「寝んじゃねぇよこの糞尼くそあまがぁ!!」

 男はゆっくりと、力無く立ち上がろうとしているミレイの襟首を左手で乱暴に掴み、そして大分だいぶ前に見たあの光景を思い出される事になる。



――アビスが投げられる時のあの状態……――



「!!」

 限界より更に上を行きそうなくらいに疲労が溜まっており、殆ど悲鳴すらあげられない状態のミレイを、男は頭上にまで持ち上げ、左手は襟首のままで、右手をミレイの両足の間の関節に回し、ミレイを天井に向けさせた状態でおぞましい行為を見せ付ける。



――男はミレイを後部客車に続く扉へと投げつけたのである……――



 扉との距離はそう遠かった訳では無かった。ミレイはそのまま頭の方向から扉へと激突し、衝撃に耐え切れなかった木造の扉は割れ、周囲に木片を散らばらせる。

 勿論ミレイもただ素直に扉を破壊する道具になっていた訳では無いだろう。頭から直接入れば一大事になるのだから、顎を引き、両手を後頭部へ回し、頭部だけを必死で守っていたのだ。

 それでもミレイの身体は通常は並の力では破損するはずの無い木造の扉を突き破ったのだ。相当な激痛が全身に走ったに違いない。その証拠に投げ飛ばされてからまだ起き上がっていない。散らばる木片と共に仰向けに倒れている様子が非常に痛々しいが、乗客は手出し出来ず、黙っている事しか出来ない。

「今度こそ終わりらしいなぁ。最後にちょっとだけ遊んでやるよ」

 勝ち誇ったかのように両手を交差させるように叩きながらミレイを見下ろし、そして、突然ミレイの腰を跨ぎ始める。



――次に、ミレイの腹に腰を下ろし始める……――



「うっ……」

 男が迫ってくる様子はミレイはしっかりと確認はしていたものの、座られた際に生じた重量は並大抵のものでは無い。肥満なのだから、確実にアビスやスキッド達の体重の倍は下らないであろう、その重さが腹に圧し掛かったのだから、黙っていられるはずが無かった。

――アビスの確認は、投げ飛ばされてミレイが受け止め、そしてそのまま背中から倒れこんだ時……

――スキッドの確認は、アーカサスの街へ向かう馬車内部で背中から押し倒された時……

――その過去の記録がミレイの身体に二人の体重情報を残してくれていたのだが、やはり今回は……



「さて、やるかぁ!!」

 ミレイの身体に座った肥満の男は突然両手を強く握り、まるで遊戯でも始めるかのような声をあげ、そして握った手をミレイの顔目掛けて飛ばし始める。

「!!」

 ロクに声もあげられない状態でありながらも、ミレイは両腕で顔面をしっかりと保護し、落とされる拳を防いでいるが、これで助かると言う見込みはまず無い事だろう。





――殴り続けている男と、殴られ続けている少女、はたから見ていると……――

格闘中、と言うよりは、抵抗すら叶わないひ弱な少女が虐待を受けているようにも見えてしまう。
損傷具合を見ても、少女側が圧倒的に酷い。体力的にも同じ事。
しかも、男側は少女の上と言う、極めて優位な位置を手に入れており、より一層状況の悪さを伝えている。
だが、このまま殴られ続けていたら確実に少女側は持たないだろう……。





 声もあげられない状態でミレイは必死で両腕に力を込め続けているが、実際はただ受け続けているだけでいる訳では無かった。

 両腕の僅かな隙間、そして両側から見える男の姿を確認しながら、男の超重量から逃れる方法を模索していたのだ。

 純粋に身体を引くだけで抜けるのはまず不可能に近い。だが、ここから抜けなければ延々と拳を受け取る破目になる。

「おらぁ! どうしたんだぁ!?」

 男はまだ楽しそうに殴り続けている。肥満と言う体型は、素早さでは確実に周囲に劣るであろうが、純粋に体重そのもので攻める場合、それは絶大な威力を誇れるものへとなるのだろう。



――やはり、ここは大胆に行くべきか……――



 ミレイは無言のままで、その大胆な行動に移る。



――両腕の後ろで流れる血液がすぐ横を通るその青い瞳を恐ろしい程に尖らせ……――



――怒りに震えているかのように、唇を持ち上げ、中にある歯を非常に強く食い縛る……――



――そして……――



――男の膨らんだ腹に飛びつく……――



 ミレイは男の攻撃によって相当痛みを覚えている腹筋に力を入れ、そして男の肥満の象徴でもある膨らんでいる腹部に思いっきり噛み付いたのである。



「うわぁあああああああ!!!」



 男の腹に走る鋭い激痛に、客車内部全体に恐ろしい程によく響く低い声による悲鳴が響き渡る。神経に伝わる痛覚は男の拳を易々と鈍らせてくれたのだ。

 ミレイの口内出血によってやや赤く染まった白い歯が男の腹の皮膚をしっかりと捕らえている。男が叫ぼうが喚こうが、離す気は無い事だろう。



――だが、男も我慢の限界を通り越し……――



「ってぇなぁ!! てめぇ離せこらぁ!!」

 男はミレイを乱暴に引き離そうと、左腕でミレイの背中側の黒い肌着を引っ張り、そして、右腕を使ってミレイの頭部を殴りつけている。



――殴ると言う行為、上から頭を叩いているのだから、拳骨に近い表現が正しいのかもしれないが……――



 何度も右手で殴られても、ミレイはかじる力を決して緩めなかった。寧ろ、痛みに堪える為に歯を食い縛るつもりが、男のたるんだ皮膚を齧る強さがより一層強くなっていく。

 だが、やはり痛いものは痛いのだろう。ミレイの瞳は必死そのものだ。絶対に口元を緩めぬよう、鋭さを保ったままである。



――そして、男は痛みに耐え兼ね、僅かではあるが、ミレイに乗せていた身体が少しだけ浮く……――



 その小さな隙をミレイは見逃さなかった。では無く、この隙を待っていたのである。

 浮かび上がった瞬間、すぐに男の腹部から顔を離し、そして両手でミレイ自身の身体を後方へ滑らせるようにしてようやく男から解放される事となる。

 残り少ない体力を力一杯振り絞り、正常な状態とほぼ変わらないような手捌きですぐに立ち上がり、男から距離を取り、構えの体勢に戻るが、やはり無理をしていたのだろうか、片膝が床に付きそうになるぐらいに体勢が下がり始める。

「いってぇ……。この尼がぁ……マジぶっ殺してやらぁ!!」

 男はミレイに齧られた場所を押さえながら、体力的に余裕があるかのように平然と立ち上がる。その押さえられた場所からは血が流れ始めている。

 だが、その物理的な激痛よりも、弱りきって闘う力が残っていないはずの少女から再び非常に強い反撃を受けた屈辱感の方が大きかったのだろう。よろよろと立っている少女を今度こそは、本当に今度こそは殴り倒して終わらせようと、再度拳を握り、自分より縦幅も横幅も小さい少女に走り寄る。

「それ……聞き飽きたわよぉ!!」

 男の勝利宣言のような言葉を何度も耳にしていたミレイはぜえぜえとした呼吸と混ざった声を飛ばし、同時に身体を素早く横に向け、右足を真っ直ぐ男の顔面に向かって伸ばす。

 体力的に弱りきっているとは言え、その威力は充分なものがある。だが、ミレイの追撃は叶わない。疲労と激痛によって動作に鈍りが生じていたのだろうか、追撃の前に男の拳がやってきたのだ。

「うるせぇ!!」

 ただの怒鳴り声であるが、それと一緒に迫ってきた拳が一番の問題だろう。もうミレイの右腕だけでの防御では男の重たい一撃を完全には受け止め切れない。

 だが、もうここまで来て一回ずつ床に崩れている訳にもいかない。麻痺しつつある痛覚神経にある意味での感謝を覚えながら、反撃される事に対してもう何も気にしないと心に言い聞かせるかのように、殴られても引き下がらず、男の顔面目掛けて拳を飛ばし、そして横腹に蹴りを入れる。

「うっさいのはそっちよ!!」

 男も黙ってはいてくれない。容赦の無い拳がミレイの顔や身体を打ち付ける。ミレイも顔面だけには攻撃を入れられないよう、顔を横に向けたり、腕を使ったりして軌道をずらしている。実際、今の所一度も顔面には入れられていない。

「もうすぐその口聞けなくなるぜ!!」

 男はミレイを早急に黙らせてしまおうと連続で拳を振り下ろし続けるが、腕だけで悪足掻わるあがきのように防御を繰り返しながらも、ミレイは男を何度も蹴りつける。

 回復させたような素振りを見せていても、やはり攻撃を避けるだけの体力は素直だったのだろう。だからこそ、痛覚が麻痺したような状態を上手く使い、腕での防御を選択したのかもしれない。

「じゃあさっさとそうしてくれる!?」

 男の方も殆ど口ばかりのような印象を受け取ったミレイは男を挑発するような台詞を飛ばしながら、力を入れた左足を男の顔の側面にぶつける。

「じゃあさせてもらうぜ」



――突然男の怒りに満ちた声からその怒りが消える……――



 代わりに、男が突然ミレイを掴み始める。その動作の後に来るものは、ほぼ確定していると言えるが、分かっていたとしても逃れる事は出来なかった。

「何よ! 離……!」



――突然ミレイの身体は横方向へと非常に強い力で流れ始める……――



「おらぁああ!!」

 男はミレイの軽い身体を自分の背後目掛けて自分の横を通らせるように投げ飛ばしたのだ。

 ロクに対策も取れないミレイはそのまま男の力に素直に従うしか無かった。そのまま元々備えられていた扉を挟んでいた両側の壁の内の機関車の進行方向に対して右側の壁に……



――鈍い轟音を響かせ、背中を非常に強く打ちつける……――



「がっ!」

 息が詰まるような痛みが背中を最初に、そしてすぐに全身に走り、鈍痛に耐えられず、そのまま前のめりに床に倒れそうになるが、そう距離の離れていなかった男はすぐに近寄ってくる。

「まだ終わってねぇぞ!」

 男は再びミレイを掴み、そして勢い良く持ち上げる。



――そして、今度は後部の首元が天井に激突する……――



 今度は悲鳴をあげる余裕が無かった。ミレイは頭上に感じた恐ろしい気配に備え、顎は引いておいたのだが、完全に頭を守りきるのは不可能だった。頭部を天井に強く打ち付けられ、痛みに対し、ただ目と歯を強く閉じ、噛み締める事しか出来なかった。

 それだけで男は終わらせない。持ち上げた少女を、今度はわざとらしく、横に向かって乱暴に落とす。



――そう、その横にあるものは……――



 無言を保ちながらも、男から距離を取ろうと、窓際へと身を寄せていた乗客達であるが、男を食い止めようとしてくれている少女を落とされては、驚かずにはいられない。



――ミレイの背中は背凭れの先端と、乗客の頭部らしき箇所にぶつけられる……――



 もう他者の事に気を配っている余裕等無かった。溜まりに溜まった激痛、そして今受けた激痛が合わさり、声も出せない程の苦痛が全身を走り巡る。

 落下場所が非常に不安定である為、そのまま乗客達の足元に崩れ落ちそうになるが、男は手を抜く事は無かった。

「おいおい、部外者に迷惑かけていいと思ってんのかぁ?」

 嫌味を込めた言葉をミレイにぶつけながら、前部と後部の座席に埋もれるように動けなくなっているミレイを再び掴み、今度は向かいの座席へと投げ落とす。





――もう、最悪の光景である。痛くても、悲鳴すらあげられず……――

既にミレイの精神の中では自分が他者に間接的に打撃を与えてしまっている事を感じられなくなっている。
何度も襲ってくる激痛が自分自身の事だけでいっぱいにしてくれる。
自分を守る事で精一杯であり、他者の心配をする余裕がまるで無い。

気付けば、身体中が湿ったような感じを覚える。
恐らく全身から汗が噴出しているのだろう。
既に黒い肌着は汗で相当濡れてしまっており、
そして頬を何滴もの汗が流れ落ちている。血と混ざり合いながら。

やがて再び身体を持ち上げられ、一瞬だけ身体から重力の抵抗が消えたような錯覚を覚えるが、
背中から走ったいつ走ってきても決して慣れる事の出来ない鈍痛が走ると同時にその錯覚は消え失せる。





「ははは、結局おれより弱いんだなぁ、所詮はか弱い女の子ってやつかぁ?」

 ミレイは最後に、背中から床に叩き落された。全身を硬直させながら、激痛に耐えて荒々しく呼吸を続けている。立ち上がる事は叶わないが、それでも男は勝ち誇るかのようににやけながら、ゆっくりと近寄る。

「おらぁ! 立てぇ!」

 同時に男はミレイの胸倉を左手で鷲掴みにし、上体を強引に起こしながらも、右の拳でミレイの顔の側面を殴り飛ばそうとする。

 ミレイも咄嗟に飛んできた拳から顔面を守ろうと、力の抜け始めた両腕でカバーするも、その腕に隠れた顔には非常に苦しそうな表情が現れる。

 男の台詞は文字通り、ミレイに立ち上がる事を施すものだったのだろうが、殴ると言う行為を見れば、多少矛盾していると言えるが、男にとってはただミレイを倒す事しか考えていないのだろう。



――攻撃を受け止めた後、ミレイは立ち上がるが……――



「はぁ……はぁ……、立って……はぁ……はぁ……やったわ……よ……はぁ……」

 一体どこから体力を持ってきているのかと伺いたくなるような状態である。

 両足を小刻みに震わせ、上半身は今にも崩れ落ちそうな雰囲気を漂わす。その証拠に、顔ごと下に倒れかけている。

 黒い肌着にも、焦げ茶のズボンにもいくつもの擦り剥いた後や切り傷が映り、そして、汗で滲んでいる。

 顔にも殴られた痣や、擦り傷、及び左頬から流れた血液、他にも至る所から血を流しており、そして、同時に汗も流れ落ちている。

「随分な奴だ!!」



――不幸にも、男の巨大な拳が盾代わりの両腕をすり抜けてしまう……――



「う゛っ!!」

 いくら痛覚神経が麻痺し始めていると言っても物事には限度と言うものがある。ミレイの疲れきった精神状態で顔を横殴りにされて黙っていられるはずが無い。

 そのまま横に倒れてしまいそうになった傷に塗れた細い身体を背凭れを引っ掴んで根性を使って支えるが、防御体勢が崩れた少女の姿は、正直な話、最悪な状態である。

「結局そうなんじゃねぇか!!」



――休む余裕も与えず、男は少女の傷だらけの顔に狙いをつけるのだ……――



「うっさい……きゃっ!!」

 何がそうなのか、よく分からない台詞を聞いてミレイは反発して見せようとするが、共にやってきた拳がその願いを妨害してくれたのだ。

 やや下から救い上げるように飛ばされた拳がミレイに妙な意味での可愛らしさを携えた悲鳴を飛ばさせ、更に唾まで飛ばさせる。そして、その威力も尋常では無いのは言うまでも無い。

ようぇぇならようぇぇって言っちまえ!!」

 苦しそうな表情を浮かべるミレイにまるで容赦や情けをかけず、男は激痛で無意識に後退するミレイに更に連続した拳による攻撃を受け渡す。



――もう……最悪だ……――

両腕で防御ガードする余裕も貰えず、好き放題殴られ続ける……。
仮に出来ても横から狙われる……。

顔を殴られれば否応無いやおうなしに唾が小さくではあるが飛び散る……。
いくら清楚な女の子とは言え、あまり見せたくない物だろう……。
だが、本人にそれを制御出来るかと言うと、今の状況を考えて難しい……。



「気絶したフリぐれぇしてみろやぁ!!」

 いつ倒れてもおかしくないミレイに怒鳴りつけながら、男は右手を乱暴にミレイへと近づける。



――ミレイの黒い肌着を下から持ち上げたのだ……――



 まるで右手だけで肌着の下部と上部、首元まで纏めて掴むかのように、そしてミレイを乱暴に持ち上げたのだ。

 最悪な事に一気に肌着が持ち上げられ、まるで脱がされるかのような状態となる。一気にくびれた腹部が露になってしまい、仕舞いには青いブラジャーまで曝け出される破目になってしまう。やはり貧乳でも必要な代物なのだろうか。

 それよりも、曝け出された腹部には大量の痣や擦り傷、切り傷が映っている。非常に痛々しい。



――だが、本当に最悪なのはそんな羞恥に関する事では無いのだ――



 男は爪を立てて手を伸ばしたのだから、非常に惨たらしく肌を引っ掻かれたのだ。

 腹から胸にかけて赤いラインが残酷に走り飛ぶ。

「!!」

 ミレイは持ち上げられる最中に爪で襲われたかのような激痛が腹部に走るが、まともな悲鳴をあげるだけの体力は存在していない。



――そして宙に上げられている状態で……――



「死ねぇえええぇい!!」



――男はミレイを真下へと送り付ける……――



「うあぁ!!」

 ミレイの首元を離さず、そのまま床に押し付けるかのように太い右腕を真下へと落とし、ミレイに衝撃の地獄を見せ付ける。

 ほぼ首から床に叩き付けられたミレイは苦しくも、悲しそうな悲鳴を飛ばしながらその場で身体を痙攣させるが、男はまさに非情そのものだったのだ。

 一度ミレイから右手を離すものの、足元で痙攣を起こして倒れた状態のミレイを、男は楽しげに見下ろしている。

 ミレイの方では上半身に走った衝撃の苦しみで、非常に辛そうに両目を強く閉じている。



――そして、すぐに……――



「はははははぁ!!!」



――笑い声と共に、男は右足でミレイの顔を踏みつけたのだ――



「!!」

 ミレイは妙な笑声によって咄嗟に目を見開いたのだが、そこに映っていたのは男の靴の裏であり、素早く顔を右に向けるが、それはあくまでも顔面を回避出来ただけで男の足は回避出来なかった。



――ミレイの顔は男の足と床の二つの要素に挟まれたのだ……――



 男の足がまるで意地悪でも企んでいるかのようにミレイの左の頬を乱暴に捻り回し、徐々に汚い跡を残していく。

 確実にミレイもすぐにでも脱出しようとは思っているのだろうが、全身に走る苦痛と疲労が簡単には許してくれない。それでも両手を男の足首に動かして何とかどかそうとはしているが。

「ははは、愉快だぜ。やっぱこう、ザコを甚振いたぶるってのはいいよなぁ?」

 足の裏を捻り続けながら、下にいる少女に尋ねる男であるが、男にしては珍しく笑みを浮かべた表情である。とは言っても明るさでは無く、狡猾さが見えたものである。

「何が……愉快よこの変態!!」



――両腕に力を込め、足と床の間から顔を引っ張り出す!――



 一瞬床によって顔を擦られてしまうが、もうここまで来れば多少の傷等気になる事は無かった。

 男から解放されたミレイは弱りきった力を何とか使い、立ち上がるが、男の拳が再び吠える。

「誰が変態だゴラァ!!」



――侮辱された怒りを右腕に乗せたのだ――



「!!」

 今度こそ上手く両腕で防御する事に成功するが、残された体力はもう殆ど少ない状態。客席の背凭れに両手をついて寄りかかりながら、一度左手だけを背凭れから離してようやく持ち上がったままだった肌着を下へと伸ばす。

 先程の状態はほぼ極限のものだった為に自分の衣服の心配をしている暇も無かったのだろう。



――もうそろそろ、重たい一撃を受ければ、簡単に崩れ落ちそうな空気が漂っている……――



「そうだ、丁度ここって最後尾の客車だったなぁ」

 突然男はそのような台詞を飛ばし始める。動作には、襲い掛かってくるような素振りが見えず、何かをミレイに伝えようと言う意識も僅かに見える。

 未だにミレイは下を向いたまま非常に荒い呼吸を続けたままであるが、話は聞いている。

「実はだ、お前のすぐ後ろになあ、連結させてんだよ、おれらが乗ってきた武装車両ってやつをなあ」

 男はミレイの背後にある扉に指を差しながら、伝えた。ミレイの背後は、最後尾の客車、即ち、外の世界であろう。どうやら男、そして少年達はその最後尾に繋がれている客車に自分達の車両を連結させ、そこからこの機関車内に入り込んできたのだろう。



――ようやく、ミレイは傷と汗に塗れた顔を持ち上げ、返答する――



「へぇ……そう……なんだぁ……んで……だから……何……よ……」

 ミレイとしても、一応相手はこの機関車の中へどうやって侵入してきたのか、教えてくれたのだから、多少は頷いてやった。だが、それを教えた所でこの状況に対して何が生まれるのか、それが今一よく分からず、呼吸を荒げたまま、聞き質す。

「分かんねえか? もうすぐお前はくたばる。すぐ近くだぜ、地獄ってのがよお。荷物がすぐ近くにあるって、いい事だと思わねえか?」

 男の勝利宣言の裏にあるものは、その連結された車両に込められた深い意味である。だが、立っているだけで辛い思いをしているであろうミレイにはその回りくどい表現がやや頭の中で混乱を覚えさせるものの、大体の意味を理解出来ない程馬鹿な作りでは無い。



――ミレイは、後に連結された車両によって連れて行かれる……――



「悪いけど……はぁ……はぁ……こんなとこで……はぁ……終わって……はぁ……らんない……のよ……」

 いつの間にかミレイは顔を上げていた。それでも上半身は前に傾いたままであるが、ミレイとしても意地と言うものがあるのだろう。相変わらず苦しそうに呼吸を繰り返しながら、男だけの都合で自分の未来に歯止めをかけられる事を拒む。

「あっちに……クリス達が……はぁ……はぁ……いて……はぁ……はぁ……頑張っ……てる……ってん……のに……はぁ……はぁ……黙って……負けてられるかって……話……よ……はぁ……はぁ……」

 きっと、アーカサスの街の方でもクリス達は確実にとある何かと闘っている事だろう。だとしたら、ミレイも負けてはいられないと、その意気込みを呼吸を恐ろしく乱しながら男に見せ付ける。



「そうかあ、でもたった今手っ取り早い方法思いついたんでなあ、行くぜ」



――何を企み始めたのだろうか、男の顔が嫌らしい笑顔になりだす……――



 男はミレイに飛び掛り、そして脂肪で膨らんだ両手でミレイの細い首に掴みかかる。

「ちょっ、何すっ……あ゛ぁ゛!!」

 突然近寄ってきた男に対抗すら出来ず、一気に首を掴まれてしまう。そしてすぐに床へと押し倒され、いつかの時のように、床と、男に挟まれる。声が濁り、そして遂にそれ以上は何も発音出来なくなる。



――首を絞められ、そして、男の力に従って地面へと押し付けられる……――



 男の手を払い除けようと、ミレイは自分の腕を何とか動かし、男の太い手に掴みかかるが、疲労によって抜けきった力ではどうしようも無かった。男の力は更に強くなり、抵抗も無駄なものと化し始める。

「どうした? 単純な力比べだったらおれの方が数倍上だかんなあ。このままお寝んねさせてやるぜ」

 やはり、体格の差を見れば分かる通り、ただ単純に力そのものだけでぶつかり合うとしたら、どのような見方を持ってしても、肥満で尚且つ大柄な男の方が有利であるに決まっている。



――首を掴み続けるか、それともその腕を引き離すか、純粋な腕力勝負なのだから……――

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